書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』24


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第24回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第3章 統一教会の教団形成と宣教戦略」の続き

 櫻井氏は本章の中で、「資金調達の戦略」というテーマを掲げ、アメリカや韓国における統一教会の宣教活動の資金のほとんどが日本で調達されたものであることを指摘した上で、日本における資金調達活動の展開について解説している。

 日本統一教会の草創期のメンバーが廃品回収を行って資金を得ていたことは教会史の講義や初期の先輩の証しの中にも登場する有名な話である。櫻井氏の解説によれば、その後の統一教会の資金獲得の方法は、青年信者による花売りから、朝鮮人参茶、大理石の壺の販売、姓名判断や印相鑑定と絡めた商品の販売へと発展していったという。この辺の記述は、いわゆる霊感商法として既に多くの文献に記載されている内容と基本的に同じである。櫻井氏はこれらの商品が韓国の一信石材、一和といった統一教会系企業から輸入されたものであり、販売員は全て統一教会員だったこと根拠に、「統一教会の経済活動とみなすことができる」(p.92)と述べている。

 いわゆる霊感商法をどのように評価するかに関しては、このブログの別のシリーズである「霊感商法とは何だったのか?」において詳細に述べているのでここでは繰り返さない。ただ、大理石の壺などの開運商品の販売が統一教会の経済活動であるという櫻井氏の主張に対しては、統一教会側の反論を一応紹介しておきたい。世界日報社から出版された『「霊感商法」の真相』(霊感商法問題取材班著)によれば、これらの販売を組織的に行ったのは、「全国しあわせサークル連絡協議会」(略称・連絡協議会)であり、統一教会がこうした販売を指示して行った事実はなく、連絡協議会と統一教会との間には直接的な指揮命令関係はなかったという。こうした主張は、統一教会の信者たちが行った経済活動の責任が宗教法人に及ばないようにするという、裁判闘争上の事情に基づくものであることは明らかだが、この問題に対する教会のスタンスはいまも変わらないし、今後も変わることはないであろう。したがって、これ以上の議論は水掛け論に終わるだけである。

 櫻井氏は、日本の統一教会だけがこのような経済活動をしなければならない理由を以下のように説明する:
「韓国は教祖文鮮明誕生の地ということだけではなく、統一教会が神の王国、地上天国を建設した後、世界の中心になる地とされている。・・・アメリカは文鮮明及び教会幹部達が活動戦略を練り、政治的な活動も行う中心地であり、教義上は、アメリカが韓国を政治的にサポートすることになっている。

 それに対して、日本は、世界宣教、及びアメリカ・韓国における統一教会の経済活動を資金・人材の両面で支える国家だとされる。日本はエバ国家とされ、第二章の堕落論の解説で述べたように、エバはアダムを堕落させたものゆえに、アダムに侍ることが教義上求められる。そのために、一九七〇年代以降、日本における資金調達は熾烈さを極め、一九八〇年代に入って、霊感商法等の経済活動を展開するに至った。」(p.94)

 このシリーズの第19回でも述べたが、韓国と日本の関係に関する櫻井氏の解説は、統一教会内部では聞いたことがないような、奇妙で捻じ曲げられた教説になっている。統一教会において日本が「エバ国家」や「母の国」と呼ばれ、韓国が「アダム国家」や「父の国」と呼ばれてきたことは事実である。しかし、そのことが堕落したエバの罪責と結び付けられて、「エバ国家」である日本が「アダム国家」である韓国に資金提供をしなければならないなどという教説は統一教会には存在しない。また、妻が夫に万物を貢がなければならないという意味で両国の関係が説明されるのを私は聞いたことがない。

 そもそも、「妻が夫にお金を貢ぐ」というアナロジーでは、ダメ親父のために苦労する妻のような悲惨なイメージであるため、信徒たちの献金意欲を鼓舞することなどできないであろう。日本において統一教会の信徒が熱心に献金をしてきた動機は、韓国に対する妻の立場というよりは、世界に対する母の立場である。ちょうど母親が赤ん坊に母乳を与えて育てるように、自己犠牲的な精神で世界宣教のために資金と人材を投入し、世界の国々を養育するという使命に誇りを感じながら、統一教会の信徒たちは熱心に献金をしてきたのである。すなわち、「世界の母の国」というアナロジーが日本の信仰の原動力となってきたのである。

 続いて櫻井氏は「人的資源獲得の戦略」と題して、統一教会の布教方法が日本の多くの既成宗教や新宗教とは異なる特殊なものであることを説明する。統一教会の布教方法に対する批判の代表的なものに「マインド・コントロール」があるが、櫻井氏の場合には「マインド・コントロール言説」を無批判に受け入れているわけではない。彼は1996年に北海道大学の雑誌の中の『オウム真理教現象の記述を巡る一考察』という論文の中で以下のように述べて「マインド・コントロール言説」を批判したことがある。
「マインド・コントロールとは、自己の経験を自分と第三の社会的勢力が二重に解釈した語り口でしかない。騙されたと自ら語ることで、マインド・コントロール論は意図せずして自らに自律性、自己責任の倫理の破壊に手を貸す恐れがある。信仰者は、教団へ入信する、活動をはじめる、継続する、それらのいずれの段階においても、認知的不協和を生じた段階で、自己の信念で行動するか、教団に従うかの決断をしている。閉鎖的な、あるいは権威主義的な教団の場合、自己の解釈は全てエゴイズムとして見なされ、自我をとるか、教団(救済)をとるかの二者択一が迫られることがある。自我を守るか、自我を超えたものをとるかの内面的葛藤の結果、いかなる決断をしたにせよ、その帰結は選択したものの責任として引き受けなければならない」(櫻井義秀「オウム真理教現象の記述を巡る一考察」『現代社会学研究』1996年9、北海道社会学会、p.94-95)

 本書の中では、「新宗教集団の布教や教化行為には、少なからず承諾誘導の技術が用いられている」とし、一般の人々が短期間のうちに回心し、信者になれば布教にも従事するというのは、「教勢を急速に伸張させてきた在家主義の新宗教に典型的なパターンである」(p.94)としている。したがって、一般的に「マインド・コントロール」と言われて批判されている内容は、日本の多くの新宗教にも当てはまるという見解だ。

 それでは統一教会のどこが特殊であるのかと言えば、それは正体を隠した布教である。
「布教の初期に、教団名はおろか、宗教の布教ということも明らかにせず、教養的な内容を学習する場だから安心するようにと言い、受講を継続させる」
「四日間研修の直前の段階において、この団体が統一教会であることが初めて明かされる。・・・つまり、最初のセミナー勧誘からこの合宿まで、人により数ヶ月の開きはあるが、何のためにその人が勧誘されてきたのかを明かさない特異な勧誘方法なのである。宗教を明示していないのだから、宗教団体が通常行う未信者の人に対する『布教』や『伝道』とは到底いえない。」(p.95)

 過去において、統一教会信者の一部が櫻井氏の言うように初期の段階で目的や教団名を秘匿して伝道を行った事実はあり、元信者が教会を相手取って起こした損害賠償請求訴訟で、そのことが瑕疵となって教会側が敗訴したケースがあった。初期の「青春を返せ」裁判においては、元信者らは「マインド・コントロール言説」を前面に立てて争ったが、その訴えが法廷で否定されたため、原告側は「正体を隠した伝道」「不実表示」を主張して争う方向に戦略転換し、それが裁判所によって認められた形である。

 こうした判決を受けて、2009年3月25日に統一教会の徳野英治会長は「教会員の献金奨励・勧誘活動及びビデオ受講施設等における教育活動等に対する指導について」と題する文書を発表し、以下のように教会員に対して指導を行った。
「教会員が自主運営するビデオ受講施設等における教育活動等についての指導基準

 勧誘目的の開示:教会員が自主的に運営するビデオ受講施設等における教育内容に統一原理を用いる場合、勧誘の当初からその旨明示するように指導して下さい。また、宗教との関連性や統一教会との関連性を聞かれた際には、ビデオ受講施設等の運営形態に応じた的確な説明ができるよう、ご指導下さい。」

 こうした指導の結果、統一教会の信者たちが行う伝道活動において、正体を隠して行わることは基本的にはなくなり、もしこの指導に対する違反が発見された場合には、教会本部からの強力な指導が行われるようになった。したがって、櫻井氏の述べる統一教会の布教方法の特殊性は既に過去のものとなっている。

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