書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』206


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第206回目である。

「おわりに」

 第201回から本書全体のまとめにあたる「おわりに」の内容に入り、前回は「2 韓国の祝福家庭」の内容を扱ったので、今回は「3 本書で明らかにしたこと」と「4 本書で触れていない統一教会の諸問題」の内容を扱うことにする。

 「3 本書で明らかにしたこと」は、基本的にこれまで各章で主張してきたことのまとめであり、繰り返しであるが、本書の内容自体が膨大であるため、すべてを網羅しているわけではない。櫻井氏自身が特に重要と思ったポイントを並べていると思われる。内容が繰り返しである以上、私の方でも既に批判済みであり、批判を繰り返す必要はないのだが、このブログの内容もまた膨大になったため、どこで批判したのかを整理しておきたい。

 櫻井氏は、「(1)戦後の外来宗教の中で統一教会が最も宣教に成功した理由は、宗教文化の戦略的偽装である。宣教初期はキリスト教としてハイカルチャーな文化宗教、あるいは宗教と科学を統一して現代文明に画期をもたらす思想であることを前面に押し出して、知的な関心を示した大学生や社会変革を志す青年の動員に成功した。中期には、日本の民俗宗教的な霊性に似せた占いや霊能商品によって伝道や資金調達を行うシステムを確立し、一般市民や中高年婦人の動員にも成功した。」(p.559)と述べている。

 このポイントに対する反論は、第20~21回で行っている。櫻井氏の統一教会に対する理解には、キリスト教的で普遍宗教的な要素とシャーマニズム的で韓国民族主義的な要素という本来相反するものが混在しているという認識があり、どちらかというと後者の方が統一教会のより本質的な部分であるととらえているふしがある。櫻井氏の基本的な思考の枠組みには、「キリスト教=普遍宗教=ハイカルチャー」対「シャーマニズム=民族宗教=土着の宗教文化」という対比構造があり、基本的に前者の方が高尚で価値あるものと理解されているようだ。そうすると、前者の特徴を統一教会の本質的属性として認めたくないという心理が働くので、統一教会の本質を後者の方に見いだそうとするのである。櫻井氏にとって統一教会のキリスト教的で普遍宗教的な部分はあくまで「擬装」に過ぎず、本質ではないことになる。これに対して私は、統一教会は出自としての韓国文化を内包しつつも、創設者である文鮮明師の宗教的イノベーションによって民族宗教のレベルを超える普遍宗教のレベルに到達したからこそ、世界中に宣教基盤を築くことに成功したのであり、それは「擬装」などという言葉では到底片付けることのできない、教えの本質部分であると反論した。

 一方で櫻井氏が中期の特徴として挙げている、日本の民俗宗教的な霊性に似せた占いや霊能商品による中高年層の伝道という部分は、「擬装」ではなく、日本における統一教会の「土着化戦略」の一環として、私は説明した。その内容を要約すれば、統一教会が日本で成功したポイントは、キリスト教信仰と日本の土着の宗教文化の融合にあるということであった。しかしながら、このような融合にはプラスの側面だけでなく、マイナスの側面もあったことも私は指摘した。それは、統一原理の教えと、日本の土着の宗教文化が融合することによって起こるシンクレティズム(syncretism)である。

 櫻井氏は、「(2)統一教会の布教方法は正体を隠した違法な行為であり、被勧誘者の認知や情動を巧みに支配する教化システムである。・・・本調査の知見に基づいていえることは、日本の統一教会において自発的な入信はないが、いったん信者として実践的信仰を身につけてしまうと自発的に回心体験を自ら求めていくような信者となっていくということである。」(p.599-560)と述べている。櫻井氏は「第6章 統一教会信者の入信・回心・脱会」という章を設け、121ページを費やしてこの問題を論じており、私もこのブログの第50~105回において56回にわたって詳細に反論しているので、その膨大な内容をここで繰り返すことはできない。そこで櫻井氏が結論として述べている、「日本の統一教会において自発的な入信はない」という発言にのみ反論しておこう。

 櫻井氏は第6章において、「調査対象の中で自ら統一教会の門を叩いたものはない。」(p.206)と述べている。これを言い換えた表現が「日本の統一教会において自発的な入信はない」になるわけだが、この二つの間には大きな飛躍がある。前者はあくまで櫻井氏自身の調査対象に絞った発言だが、それが後者では日本の統一教会に普遍化されており、さらに「自ら統一教会の門を叩いた」ということと「自発的な入信」が同一視されているということだ。しかし、この二つは同一ではない。櫻井氏はこうしたレトリックを駆使して、日本の統一教会信者の信仰は主体的に獲得したものではなく、勧誘と説得によって受動的に植え付けられたものであるというイメージを作り出そうとしているのである。

 そもそも、求道者が自ら訪ねてくるのを待っているような教団と、熱心に伝道活動を行う教団では、入門の仕方に大きな違いがあるのは当然であり、これ自体は入信や回心が自発的・主体的なものであったかどうかの試金石にはならない。人から声をかけられて結果的に信仰に至る信徒が多いのは、伝道熱心な教団の特徴であると言えるが、勧誘されて信仰を持つようになったからといって、その人の信仰が自発的なものではないとは言えないであろう。勧誘や伝道はあくまで本人が自発的な信仰を持つようになるきっかけにすぎないからである。

 一方で、櫻井氏が後半部分で言っている「いったん信者として実践的信仰を身につけてしまうと自発的に回心体験を自ら求めていくような信者となっていく」という部分は、ストラウス、バルク、テイラー、チャードソンなどの宗教社会学者が提示している「実践主義者としての回心者」というモデルに合致する。彼らは従来の受動的な回心のモデルに対して、より能動的で積極的な回心のモデルを提示した。それによれば、個人は人生の意味を求めており、自分たちのニーズを満たしてくれるであろうと信じるグループに意識的に参加する。続いて、人々は回心者の役割を果たしているうちに、ときどき役割の報酬を感じるようになる。彼らはグループに投入し、その役割をうまく果たしていることによる自己満足を得るようになり、そうした役割を正当化し説明している思想を信じるようになるのである。要するに、「新入会員は自分自身を回心させるのである」という理論である。櫻井氏が言うようにもしこうしたパターンが統一教会信者の中に見られるのであれば、彼らは統一教会の教化システムの受動的な被害者ではなく、自らの回心プロセスにおいて主体的で積極的な役割を果たしていることになる。

 祝福に関する櫻井氏の分析に関しては、第100~105回で詳細に反論したし、中西氏の分析に関しては第141~193回で反論しているので、ここでは繰り返さない。

 櫻井氏は、「統一教会は宗教を擬装した詐欺的な経済集団であるという批判があるが、筆者は経営体としては破綻しているが、特異な世界観と信者の教化方法によって事業を継続・拡大してきた宗教団体であると考えたい。」(p.560)と述べている。私は統一教会が宗教を擬装した詐欺的な経済集団ではなく、宗教団体であるという櫻井氏の結論にのみ同意し、その他の細かい点には同意しないことは既に第44回で述べた。統一教会が宗教的理念のために世俗的な生活を一切度外視しているわけではないことは、既に述べたとおりである。

 櫻井氏は、「(5)本研究では、従来調査研究が極めて難しいと考えられてきた統一教会を対象に、脱会者と現役信者から資料や証言を収集するという共同研究をなすことができた。櫻井と中西はそれぞれの研究を独自に行っていたが、この数年間情報を交換しながら研究を進めてきた。最初から意図した共同研究ではなかったが、結果的に対象教団、調査法の二点において国内・国外においても独創的な共同研究をやり遂げたと思われる。」(p.560-1)と自画自賛している。櫻井氏の研究と中西氏の研究の関係、および本書に対する総合的な評価は、長くなるので最終回である次回に回すことにする。

 最後に櫻井氏は、「4 本書でふれていない統一教会の諸問題」という節を設け、①統一教会の勧誘・教化行為の違法性、資金調達活動の違法性、②統一教会の政治・文化的ロビィ活動の二点を挙げている。①に関しては宗教学者というよりは弁護士の仕事なのであえて触れなかったということであるが、②に関しては裏付けができないために断念せざるを得なかったということだ。②は統一教会の活動というよりは、統一運動の広範な対社会的活動の一つということになろうが、これを紹介すれば統一運動の持つ社会的影響力の大きさを逆に宣伝してしまう結果になりかねないので、断念したことは櫻井氏にとってはむしろ幸いであったと言えるかもしれない。

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