書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』55


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第55回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は、現役の統一教会信者を研究対象とするのではなく、「裁判資料をテキストにする」方法を採用した理由について、以下のように説明している。
「社会問題化している教団というものは正面から正攻法で調査できない場合が多い。公式的な社会調査の手法や調査倫理に基いて教団本部の広報を通して調査依頼し、被調査者に配慮して、調査許可されたことだけを調査し、公開可能とされたものだけを調査結果として公刊するだけでは、筆者が考えるところの調査にならない。そこで、脱会者に話を聞くわけだ。」(p.200)

 これは詭弁である。櫻井氏の言うところの「正攻法」の調査方法だけでは、特定の宗教団体の一面しか見ることができず、全体像を描写することができないという主張は認めよう。しかし、こうした「正攻法」によって知ることのできる情報は、その宗教団体に関する貴重な知見であるし、一面とは言え、その宗教団体のまぎれもない真実の姿を現したものである。あるものに「表」と「裏」があるとすれば、その両方が真実なのであり、「裏」だけが真実なのではない。櫻井氏の問題は、「正攻法」の調査を行ったうえで、脱会者の話を聞くことによって「裏」を取るのではなく、初めから「正攻法」の調査方法を放棄して、「裏」である脱会者の情報にのみ依存している点にある。しかも、その元信者は統一教会を相手取って裁判を起こしている人々であるという点において、かなり特殊な人々であると言える。これは、現役信者と元信者の両方を研究対象としたアイリーン・バーカー博士の研究方法と比較すれば、明らかに偏っており、片手落ちの研究方法と言わざるを得ない。このことは繰り返して強調する必要がある。

 櫻井氏は、「裁判資料に偏向がないわけではない」(p.200)というが、これは資料批判の観点からすれば能天気な発言だ。実際には、民事訴訟における原告の陳述書や証言は、一方当事者の主張に過ぎず、それに依存すること自体がまさに偏向そのものである。櫻井氏は、「裁判の原告となった人が統一教会信者をどの程度代表しているものかがわからない」「裁判を起こした元信者のデータははずれ値の可能性が高い。」(p.201)とも言っている。その通りであり、裁判の原告は平均的な統一教会信者ではなく、まさに「はずれ値」と言ってよい特殊な人々である。また民事訴訟における陳述書や証言は、その「はずれ値」にさらにデフォルメ(変形)が加えられた特殊な資料である。こうした歪んだ「はずれ値」のデータを用いて、統一教会全体の入信、回心、信仰生活の実態について記述している点に、櫻井氏の研究の根本的な問題がある。

 さて櫻井氏は、「二 統一教会信者の入信・回心・脱会のパターン」の中の「どういう人が信者になるのか」という項目の中で、マーク・ギャランターやアイリーン・バーカーなどの西洋における統一教会の先行研究を紹介している。「統一教会へ入る人達に特有の個人的・社会的特徴はあるのか」(p.202)という問いかけに対する彼らの知見を紹介しているわけだが、バーカーとギャランターの研究において、「精神的・心理的特性は認められなかった」(p.202-3)という彼の表現はあまり適切ではない。これではまるでまったく特徴がないかのように誤解されてしまうだろう。実際には特徴はあるのである。正確に言えば、こうした先行研究が明らかにしたのは、一般の人と比較して統一教会信者の精神的健康度が低いという証拠は見いだせなかったということであった。これは、「カルトに入るような人は精神的に病んでいるか、トラウマを抱えたような人に違いない」という一般的な憶測を否定する研究結果であった。

 櫻井氏の表現でいえば、「一般市民や平均的な学生より知的水準・学習能力が低く、被暗示性が高いのではないかという仮説を立てて調べてみたところ、どちらの調査でもそのような仮説は否定された。むしろ、学歴や出身階級も平均より高く、向学心も強い人達であることが示された」(p.203)という記述の方が正確である。最終的に統一教会信者になる人は、「生きる意味や世界の目的と言ったものを模索していたが自分では見出せなかった」(p.203)ような人々であるという知見も、「価値志向性の強い若者達が統一教会信者となっており、彼らは洗脳されたのではなく自発的に統一教会信者として活動している」(p.203)というのも、バーカー博士の研究結果の正確な報告である。しかし、ここまで正確に要約している割には、次の段落では早くも先行研究に対する理解不足を露呈しているのであるから、いったいどこまで正確に理解しているのか分からない。

 櫻井氏は、統一教会信者の特徴を入信前と入信後で自己と社会の認識や生活様式を一変させることであるとしたうえで、「信者の性格に関して言えば、教え込まれやすい人、社会的属性では、教団活動にすべてを打ち込める環境の人が信者になっているということである」(p.203)と述べている。社会的属性として、教会活動に打ち込めるような余裕のある人が信者になるというのは、ある程度当たっているだろう。実際にアイリーン・バーカーも以下のように述べている。
「人口全体をみるなら、明らかに非常にわずかな割合の人々だけが、ムーニーの改宗の努力に好意的な関心を示している。改宗した人々は、圧倒的に年齢が18歳から28歳の間で、男性が多く、また中流階層が多くて通常は未婚の人々である。」「青春は理想主義と、反抗と、実験の時代である。たまたま恵まれた中産階級の出身であれば、理想を追求しながら、自分自身に対して贅沢を禁止するという贅沢をするだけの余裕がある。青年期の健康を享受し、差し迫った責任からも解放されていれば、物質的な利益を放棄することができる。」(「ムーニーの成り立ち」第10章 結論より)

 しかし、バーカー博士は続けてこうも言っている:「そのような観察には明らかにかなりの真実が含まれているし、なぜ統一教会のフルタイム・メンバーになる人々がある特定の年齢層から得られる傾向にあるのかを理解するのに役立つであろう。しかし、それだけではこれらの一般化はあまりにも大きすぎるのであり、歴史を通じて多くの時代に当てはまるだろう。」(「ムーニーの成り立ち」第10章 結論より)

 つまり、社会的属性や環境的要件は統一教会信者になりそうな人をある程度絞り込むことはできるかもしれないが、そのような属性を持った人々がすべて統一教会信者になるわけではないので、その中からさらに絞り込まれるような性格的な特徴を見出さなければ、「どんな人がムーニーになるのか?」を解明したことにはならないというのである。

 櫻井氏は、その性格的特徴を「教え込まれやすい人」(p.203)と簡単に片づけているは、実はこれはアイリーン・バーカー博士の研究で否定されていることなのである。バーカー博士はこの「教え込まれやすい性質」のことを「Suggestibility」と表現しており、私はそれを「被暗示性」と訳した。「被暗示性」とは、他者の提案や示唆を受け入れやすい傾向のことで、説得に弱くて勧められるとNOとは言えないタイプの人、素直なお人好しタイプ、精神的な弱さや隙がある人のことを指す。バーカー博士は対照群との比較により、一般に「被暗示性」が強いと思われるような属性の強い人々、つまり貧困または明らかに不幸な背景を持っていたり、もともと精神的な問題や薬物使用などの問題を抱えていたり、基礎的な知識に欠けるがゆえに説得を受け入れやすいような人々はむしろムーニはなりにくいという結論を出した。彼女の分析によれば、統一教会に入教するような人々は、これとは逆の傾向の人々、すなわち基本的に幸福な幼少時代を過ごし、健康で社会にも適応し、高度な教育を受けた人々が多かった。もちろん、精神的な問題を抱えた人々が救いを求めて修練会に参加するということはある。ところが、こうした人々は最終的に教会員にならないか、一度入教したとしても短期間で離脱してしまう人が多いという。

 バーカー博士のデータ分析によれば、被暗示性が弱い、すなわち強固な意志を持っていて人の影響を受けにくいタイプの人も確かにムーニーにはなりにくいけれども、逆に被暗示性が強すぎる、すなわち人の言うことを何でも受け入れてしまうようなタイプの人も、修練会に参加したとしても最終的にムーニーにならないか、なったとしても短期間で離脱する傾向にあることが分かったという。すなわち、ムーニーになる人々は、「被暗示性」においては中間層の人々だということだ。特に「教え込まれやすい人」が信者になるのではないのである。

 それでは、統一教会に入る人と入らない人ではどこが異なるのかというと、統一教会が提示するものに対して積極的に反応するような「感受性」があるかないかであるという。「人はなぜムーニーになるのか?」という問いに対してバーカー博士が下した結論は、「ムーニーの説得力が効果を発揮するのは、ゲストがもともと持っていた性質や前提と、彼に対して提示された統一教会の信仰や実践の間に、潜在的な類似性が存在するといえるときだけだ」(「ムーニーの成り立ち」第10章 結論より)という言葉に集約される。つまり、統一教会の信者になった人は、「教え込まれたの」ではなく、統一教会の教えに「共鳴した」のであり、もともと共鳴する性質を自身の内に持っていたということである。

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