ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳13


第2章(6)

復帰の教義

 「人間は、何人といえども、不幸を退けて幸福を追い求め、それを得ようともがいている。」(注55)原理講論の冒頭に出てくるこの文章に、統一教会の復帰の教義のカギを見いだすことができる。堕落した状態にあるにもかかわらず、すべての人類はぼんやりとではあったとしても、完全な充足に対する欲求を自覚しており、それは神の永遠なる創造目的と完全なる調和を成したときに満たされる憧憬なのである。したがって、「肉身の快楽にふける俗人の喜びと、清貧を楽しむ道人の喜びとは、全く比べものにならない。」(注56)と断言することができるのである。

 この目標の実現が神学的に可能な理由は、一つには神の性質のゆえであり、そしてもう一つには堕落した人間の性質のゆえである。人間は神の本来の創造目的を捨て去り、サタンとの血縁関係を結んでしまったが、神の彼らに対する愛は取り消すことができず、永遠である。堕落以降の人類歴史は、わがままな子供たちをご自身のもとに取り戻そうとする神の不屈の努力の記録であるとみられている。これが統一教会の予定論に対する見解の本質である。「神が運命として定めたのは、人類の復帰に対するご自身の最終的な計画である。」(注57)堕落人間の歴史は本質的に「救済史(heilesgeschichte)」であり、それは人間をサタンが支配する世界の苦しみと悪から解放したいという神の欲求の現れである。神の目的が必然的に勝利を収めることは、統一教会が永遠の状態としての地獄を否定しているところに生き生きと示されている。最終的には万人が――たとえ最悪の罪人であったとしても――救われ、喜びと調和の神の国が地上に実現されるであろう。

 人間は堕落の結果として自由を失ってしまった。にもかかわらず、
「堕落した人間にも、この自由を追求する本性だけは、そのまま残っているので、神はこの自由を復帰する摂理を行うことができるのである。歴史が流れるに従い、人間が己の命を犠牲にしてまでも、自由を求めようとする心情が高まるというのは、人間がサタンによって失った、この自由を再び奪い返していく証拠なのである。」(注58)

 原理講論においては、自由は包括的な意味を持っており、それは自由意志だけでなく、政治的、社会的、経済的自由をも包含し、すべての形態の自由が歴史における神の摂理的な働きによって次第に発達してきたのである。(注59)

 すべての被造物が復帰されるためには、人間は神が与えた自由を行使しなければならない。「神は人間がそれ自身の責任分担を完遂して初めて完成されるように創造された」。(注60)したがって、神の御旨が成就されることは予定されているけれども、「神の95%び責任分担と人間の5%の責任分が合わさることによってのみ」(注61)これは起こりえるのである。人間の責任は神の責任に比べれば小さいが、その5%は100%の努力を必要とする。

 復帰のプロセスにおいて人間の役割を規定する原理は、堕落した人間たちが、神の愛に満ちた構想の土台の上に、自分自身をサタンのくびきから解放し、本然の四位基台を再構築することができるように計画されている。「復帰において、我々は神との勘定を清算し、我々自身をサタンから解放しなければならない」(注62)勘定の清算は、原理講論においては蕩減復帰原理として説明されている。
「堕落によって創造本然の位置と状態から離れるようになってしまった人間が、再びその本然の位置と状態を復帰しようとすれば、必ずそこに、その必要を埋めるに足るある条件を立てなければならない。堕落人間がこのような条件を立てて、創造本然の位置と状態へと再び戻っていくことを『蕩減復帰』といい、蕩減復帰のために立てる条件のことを『蕩減条件』というのである。」

 さらに、「蕩減条件は、本然の位置と状態を失うようになった経路と反対の経路をたどって立てなければならない」(注64)

 蕩減条件を立てることにより、ある人物は信仰基台と実体基台の二つを立てることが可能となり、これらは両方とも人がメシヤを迎えるために必要である。信仰基台は、堕落した人間の神との関係を復帰することに関係していなければならず、その方向性は縦的である。アダムとエバが信仰を失ったことを蕩減するためには、三つの条件が必要である。第一に、アダムの位置に立つ「中心人物」(霊的に年長の「兄弟」「姉妹」または文師)であり、第二に、人の生活を神へと導く「条件物」(祈祷、慈悲深い行い、純潔を守った生活、聖書と原理講論の学習)であり、第三に蕩減の「数理的期間」であり、これは完成に至る7年間の成長期間である。

 実体基台は復帰の横的な次元であり、人間が堕落性を持つようになった経路を逆転させることによって造成される。それは本質的に、神が本来意図した調和が地上に実現するように、人間の生活の秩序を再構築することである。個人は四つのことを行う:他者を愛することにおいて神の視点に立つ;天宙における自己の役割を守る;その役割にふさわしい権利と役割だけを引き受ける;悪ではなく善を繁殖することを決意する。

 これら二つの基台を造成することによって、ある人物は第一祝福を全うすることができるようになるだけでなく、第二祝福のために自分自身を準備することができる。第一祝福から第二祝福への移行は高い理想であり、運動のメンバーによれば、人が結婚して(「祝福を受けて」)理想家庭を作り始める前に、個性完成が完全に実現している必要はないという。最小限の希望は、その個人が神に対する確固たる信仰と、成熟し統合された人格であるという自覚と、地上に神の国を建設することに対する完全な献身を、結婚生活に入る前に獲得することである。

(注55)『原理講論』、p.1
(注56)前掲書、p.4-5
(注57)金『統一神学』、p.161
(注58)『原理講論』、p.93
(注59)したがって、最近の性の自由の発達もまた神の摂理の証拠であるとみなされることになると思われるかもしれない。しかし、私がインタビューしたメンバーは全般的にこの現象をサタンの力であるとみなしていた。
(注60)『原理講論』、p.55
(注61)前掲書、p.198
(注62)金『統一神学』、p.164
(注63)『原理講論』、p.224
(注64)前掲書、p.91

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