書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』62


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第62回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

櫻井氏は本章の「4 イベントの時間的経緯」の中で、自らの調査対象となった元統一教会信者の入信期間の長さ、伝道から入信、献身、脱会に至るまでの時間的経緯などをグラフにして分析している。それによれば、「元信者の入信期間は半数が四年未満であり、ここまでが一年刻みで十数パーセントずつ、四年以上が一年刻みでほぼ数パーセントずつの割合になっている(図6-9)。」という。入信して10年以上の者は数パーセントに過ぎない。これをもって櫻井氏は「入信後数年間は、それ以上の年月を統一教会で過ごしているものよりも脱会しやすいということがいえる」(p.214)と述べている。これはその通りであると言えるが、理由については若干の補足説明が必要である。私なりにその理由を分析してみると、以下のようになる。

まず、拉致監禁による強制改宗を受けなくても、自然脱会する者が最初の数年で相当いると思われる。これは宗教的回心を経験して新しいアイデンティティーを獲得したとはいえ、その人がもともと持っていたアイデンティティーがまったくなくなるわけではないので、二つのアイデンティティーの間に価値観や文化の違いが大きい場合には、個人の中で内的葛藤が生じるからである。この葛藤を乗り越えてアイデンティティーを安定させなければ、信仰を継続することができない。その意味で、信仰初期は脆弱な時期であると言える。これは統一教会に限らず、多くの宗教における回心者の経験することであろう。しかし、教会の中で過ごす期間が長くなってくると、その中で培われた価値観や文化が大きな位置を占めるようになり、アイデンティティーは落ち着きを見せるようになる。個人差が大きいことは考慮しなければならないが、だいたいそれまでに数年かかるとみてよいだろう。

一方で、拉致監禁による強制棄教の被害に遭うのも信仰初期が多い。入信してしばらくすると、信者は両親に自分の信仰を告白することになる。祝福を受ければ、結婚の報告をしたり許可をもらったりするために信仰を明かす必要も出てくるだろう。親は驚き慌て、牧師や弁護士などに相談することになる。そこから脱会説得を決行するまでのプロセスが入信後数年以内に起こるケースが多いのは、親から見れば手遅れにならないうちに何とかしなければならないという動機があるためだ。20代前半で伝道されたとすれば、まだ親が元気で影響力があり、子供の信仰も確立されておらず、祝福を受けて家庭を持つ前に決行しなければならないと考えれば、そんなに長く待っていられないのである。櫻井氏の調査対象は脱会説得による棄教者がほとんどなので、二番目の理由が大きく働いていると思われる。

続いて櫻井氏は、伝道されて二年を経過して信者として残っているものは数パーセントだったというバーカー博士の研究を紹介して、日本における状況もこれと同じようなものであると推察している。バーカー博士が実際に示した数字は4%であり、私自身が著書「統一教会の検証」で提示した日本の数字は3.5%である。その意味でこの部分に関する櫻井氏の分析は正しいと言えるだろう。10年以上信仰継続する者の割合が1~2%程度ではないかという分析も、それほど外れていないだろう。しかし、その数値の評価に関する以下の記述は、論理性と実証性を欠くものであると言わざるを得ない。
「こうした数値から、従来、宗教社会学では、バーカーをはじめとして統一教会によるマインド・コントロールの影響は抗いようがないものではなかったと結論づけた。それに対して、統一教会を批判する日本の弁護士達は、その一、二パーセントの人達が深く統一教会に囚われ、霊感商法等の違法活動に従事させられ、なおかつ合同結婚式といった選択の余地のない結婚により著しく人権が侵害されている点を問題にした。確かに、最後の一、二パーセントの人達は統一教会の幹部になれば生活保障をはじめとする恩恵に与れるが、その数倍に達する一般信者は生涯尽くし続けるだけの信仰生活を送ることになる。この点をどう評価するか。」(p.214)

統一教会に反対する日本の弁護士たちの議論は、論点のすり替えまたは混同である。そもそもバーカー博士の研究は、統一教会の修練会に洗脳の疑惑がかけられていたため、その効果を科学的に計測するために社会学的調査を行ったものである。これは客観的な数値に関わる問題であり、人権侵害の問題とはそもそも関係がない。その結論は、統一教会に入信した人々は強制によってではなく自らの選択で信仰を持つようになったということであり、その信仰の真偽・善悪に関しては判断を差し控え、価値中立的な立場に立った科学的研究なのである。そこに弁護士たちは自らの価値観を持ち込んで批判しているわけだ。

次に、最終的に統一教会に残った「一、二パーセントの人達」が人権侵害を受けているという点について、あたかも自明のことであるかのように述べているが、それに対する証明は何らなされていない。統一教会の信仰を持っている現役信者にインタビューを行い、その過半数が「教会の中で人権を侵害されていると感じている」と答えたのであれば、こうした主張はできると思われるが、そのようなことは一切行われていない。むしろ、統一教会自体が信徒たちに対して行った「幸福度調査」によれば、統一教会信者の幸福度は平均よりも高いという結果が出ている。

弁護士らが「人権侵害」を訴える根拠は、統一教会に青春を奪われたと主張する元信者らが、教会を相手取って損害賠償訴訟を起こし、その一部が勝訴しているという点である。これは本人が「人権侵害」を自覚している事例だが、その原告の数は1991年に提訴された東京の裁判までの合計が174名であり、その後の第二次札幌青春裁判の原告63名のうち元信者が40名であることから、総数は237名となる。そのうち、勝訴したのは108名であり、残りは敗訴または和解である。これを統一教会の信者数である公称60万人で割れば、告発したものが、0.039%、勝訴したものは0.018%にしかならない。信者の実数に近いとされる7万人で割っても、告発したものが、0.34%、勝訴したものは0.15%にしかならない。櫻井氏は別著『カルトを問い直す』の中で、統一教会が拉致監禁の被害者数として5000名を主張している(実際には世界日報の記事に過ぎない)わりに、そのうち告発された事件は30例に満たず、1%以下の割合に過ぎないことから、「事例数が少なすぎる」と批判しているが、その論法で言えば人権侵害を受けたと主張する元統一教会員の割合も、「事例数が少なすぎる」と言える程度のものなのである。

要するに、統一教会の信者は自分の意思で入信を決意し、教会の中で一定の満足と幸福を感じているからそこに留まっているということである。しかし、その中のごく一部の人々が親族によって拉致監禁されて信仰を失い、統一教会を相手取って民事訴訟を起こした。しかしその数は、訴えた者も勝訴した者も、統一教会全体の信者数に比べれば1%にも満たないということなのである。

さて、櫻井氏は統一教会の幹部は生活保障をはじめとする恩恵に与っているが、その数倍に達する一般信者は生涯尽くし続けるだけの信仰生活を送っていると主張する。いったい彼は、いかなる資料や数値的根拠に基づいてこれを言っているのであろうか? そもそも統一教会の幹部とは誰を指すのか、彼は明確にしていない。統一教会の職員は「幹部」よりも広い概念と言えるが、その中核が教会長や教区長などの役職のついた「牧会者」と呼ばれる人々であり、その上に全国の会長がいて、本部の職員がいる。果たしてこれらの人々は統一教会の特権階級なのであろうか? もしそれを主張したいのであれば、櫻井氏は統一教会の職員の給料や待遇に関するデータを数値で示し、それが一般信徒の生活と比べてどのような特典があるのかを明らかにすべきであろう。実際には、統一教会の牧会者や職員の生活こそ、「生涯尽くし続ける」生活である。そして、牧会者であろうと一般信徒であろうと、「生涯尽くし続ける」生活は、信仰者としての理想の姿である。

最後に細かい点をいくつか指摘しておく。櫻井氏は「入信者は教団のセミナー、トレーニングを経て、五七・九パーセントが献身するに至った。しかも、伝道から入信へは平均五ヶ月、入信から献身へは平均七ヶ月しか要していない。短期集中型の信者養成システムである。」(p.215)と述べている。しかし、回心の起こる速度や生活の変化の度合いが洗脳説を裏付ける根拠にならないことは、既にこのシリーズの第56回で述べたとおりである。短期集中型の信者養成システム自体は善でも悪でもない。

また櫻井氏は「統一教会信者の信仰生活は、教団の介入で始められ、家族の介入で終わるパターンとして理解できる」(p.215-6)と述べているが、これはあくまで説得によって脱会した元信者のパターンに過ぎず、統一教会信者の信仰生活のパターンではない。実際には多くの人々が数十年にわたって信仰を維持し、生涯信仰を継続するのである。統一教会の信仰を「いつかは脱会するもの」として描いている櫻井氏の分析は、極端な偏見もしくは悪意に基づいていると言えるだろう。

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