ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳14


第2章(7)

 第二祝福の具体的な表現としての結婚は、最も重要な統一教会の儀礼であり、神学的には統一教会の救済論のまさに中心に位置している。個性の完成が近づいてきたら、その個人はメシヤから第二祝福を受けるにふさわしい程度に成熟する。運動のメンバーの中にはこの点に関して意見の一致しない者もいるかもしれないが、結婚の式典はある意味でそれを通してメシヤを迎えるイベントである。(注65)しかしながら、結婚(「祝福を受けること」)は個人が原罪のくびきから解放される信仰のイベントであることは確かである。式典そのものは、それを通してサタンとの血縁関係が終了し、真の父母である文師夫妻との新しい血縁関係が開始する「通過儀礼」であるとみなされている。この血統の転換の性質は、まだ運動によって明確に述べられていない。それはまだ流動的な状況にある神学的信条の一つである。あるメンバーの言葉によれば、「この運動は成長の過程にあるので、人間と神との真の関係に関する伝統を形成している最中なのである。」(注66)にもかかわらず、原理講論では以下のように断言されている:
「堕落人間は、このようにして[#傍線]メシヤを迎えて原罪を取り除き[#傍線終わり]、人間始祖の堕落以前の立場に復帰したのちに、神の心情を中心としてメシヤと一体となり、人間始祖が堕落したため歩み得ず取り残された成長期間を、全部全うして初めて『完成実体』となることができるのである。」(注67)

 もしメシヤとの一体化が原罪を取り除くための条件であり、もし結婚式が原罪清算のための信仰のイベントであるならば、文師がメシヤまたはその代身であるだけではなく、祝福を受けるということはメシヤを迎えることを意味する、と仮定するのが論理的である。

 祝福の神学的意義は、原理講論においてはもしアダムとエバが堕落しなかったならば彼らに何が起こっていたのかに関連して説明されている。アダムとエバは歴史的存在であると同時に原型的カテゴリーであるため、以下の一節は結婚による結合のための適切な霊的基台を整えようとするどのカップルにも適用可能であろう。
「人間は天宙の和動の中心として創造されたので、すべての被造物の二性性相の実体的な中心体であるところのアダムとエバが、完成されて夫婦になってから、彼らがお互いに和動して一体となったときに、初めて二性性相として創造された全天宙と和動することができるのである。このように、アダムとエバが完成された夫婦として一体となったその位置が、正に愛の主体であられる神と、美の対象である人間とが一体化して、[#傍線]創造目的を完成した善の中心となる位置[#傍線終わり]なのである。ここにおいて、初めて父母なる神は、子女として完成された人間に臨在されて、永遠に安息されるようになるのである。このときこの中心は、神の永遠なる愛の対象であるために、これによって、神は永遠に刺激的な喜びを感ずるようになる。また、ここにおいて初めて、[#傍線]神のみ言が実体として完成する[#傍線終わり]ので、これが正に真理の中心となり、すべての人間をして創造目的を指向するように導いてくれる本心の中心ともなるのである。」(注68)

 運動の結婚に対する神学的見解にとってこの一節が重要であることを評価するのは難しくない。なぜなら、夫と妻の一体化は、愛と美、天と地、神と被造物の一体化を象徴すると同時に実現するからである。「祝福」に関する説教の中で文師は同じ意味のことを述べている:「祝福において最も重要なことは、皆さんが夫あるいは妻を得るということではありません。皆さんは神様と天宙を得るのです。」(注69)

 復帰摂理においては、祝福は統一神学において「二重目的」と呼ばれるものを持っている。それは個体として存在するための目的と、天宙全体のための目的である。一方で、個々のカップルは原罪から解放されて神のみ言葉の直接主管圏に入る。他方で、彼らの合一は神の主管を国家に、そして究極的には全世界に拡大するためのルートであると理解される。すなわち、第二祝福はそれ自体が目的であると同時に、第三祝福を実現するための手段でもあるのだ。

 復帰の教義の枠内において性について論ずるとき、心身の関係とキリスト論を考慮に入れなければ完全とは言えないであろう。本章の初めに説明したように、第一祝福の目標は四位基台の造成であり、それによって個人と神の一体化と心と体の一体化が同時に成される。アダムとエバが個性完成を実現できなかったことにより、彼らはサタンの主管下に入り、サタンが人間の活動に影響を与える第一の手段は堕落した体を通してであった。キリスト教は体の脆弱性に気づいており、適切にも姦淫(より広い意味での性的不道徳)を「すべての罪の中でも最も大きな罪」(注70)であるとみなした。神は心と体が相対的調和の状態で満ちることを意図したが、堕落した状態においては、それらは不可避的に葛藤状態に陥っている。原理講論はこの葛藤を、カインとアベルの物語(創世記4:1-16)の寓意的な解釈によって説明している。アベルは主体として神、善、心を表示し、一方でカインは対象として、サタン、悪、体の立場に立つ。
「体は心の命令に従順に屈伏しなければ、私たちの個体は善化されない。しかし、実際には体が心の命令に反逆して、ちょうどカインがアベルを殺したような立場を反復するので、我々の個体は悪化されるのである。」(注71)

 心と体の統一を取り戻すためには、本来の創造のプロセスを逆転させる必要がある。「ところで、神は元来、人間の外的な肉身を先に創造され、その次に内的な霊人体を創造されたので(創二・7)、再創造のための復帰摂理も、外的なものから、内的なものへと復帰していく摂理をされるのである。」(注72)歴史のレベルにおいては、「ルネッサンスの反中世運動」が、自然と人間の肉身の価値と尊厳性を高めたという点において再臨の準備をしたのであるが、その非原理的なヒューマニズムの故に、外的なものにのみ焦点を当てたため、それは実際には肉身に対するさらなるサタンの侵入に道を開いたのであった。

 運動の文献はこの問題に関してはっきりと述べてはいないが、肉身の救いに対して与えられた救済論的な優先事項は、運動の共同体生活において最も明確に示されていることは明らかでように思える。インタビューと観察によって明らかになったことは、このグループは心が、より正確には本心または良心が、不従順な体を支配しなければならないと強調しているということだ。したがって、運動における性的な禁欲生活の強調は、個性の完成に近づき結婚するときまで継続するのである。性欲「そのもの」は、メンバーがそのことに過度の関心を持つことによって、神を中心とする生活の探求に集中できなくなってしまわない限りにおいては、罪深くない。言うまでもなく、婚前の性行為は成長期間において神によって与えられた位置を離れることを意味し、アダムとエバの罪を繰り返すことである。大まかに言うと、肉身の復帰はおもに第一祝福の実現にふさわしい兄弟姉妹の役割に対して忠実であることによって成し遂げられる。

(注65)私がインタビューしたメンバーの大部分は文師をメシヤであるとみなしており、文師夫妻を彼らの真の父母であると見ていた。しかしながら彼らは、自分は完全に自分の意思でこの信仰に到達したのであり、メンバーになるためにこのように信じることは要求されていないと強調した。
(注66)ブライアントとホッジス『統一神学探求』、p.143
(注67)『原理講論』、p.230(下線は筆者)
(注68)前掲書、pp.38-39(下線は筆者)
(注69)文鮮明「祝福」『マスター・スピークス』(MS-77-02-20, 1977年2月20日)、p.17
(注70)『原理講論』、p.7
(注71)前掲書、p.245
(注72)前掲書、p.451

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