書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』65


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第65回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、具体的な勧誘手段として「2 手相・姓名判断」(p.221-227)を挙げ、かなり詳しく説明している。櫻井氏による姓名判断の説明は、統一教会を相手取った民事訴訟で原告らが主張している内容と基本的に同じであり、桑名式姓名判断に準拠していながら、それに独自の「因縁」に関わる鑑定手法が加えられているという。統一教会の信者たちの一部が、過去の一時期こうした姓名判断を用いて印鑑を販売していたことは事実であり、櫻井氏の著作の中で述べられていることがそれほど事実と異なっているとは思えない。

 桑名式姓名判断では姓名が持つ運勢や吉凶を判断しているのであって、因縁を説くことはないようであるから、この因縁の部分は統一教会の信者らが独自の創造性で開発したトークということになるのであろう。元祖・桑名式としては自らの姓名判断を用いて印鑑販売が行われていたことを迷惑に思っていたようだ。しかし櫻井氏はその違いを強調するよりも、姓名判断なるものを「社会科学的にはナンセンスである」(p.224)と断じているように、そもそも信じていないのである。したがって、姓名判断が桑名式に忠実であるかどうかはそれほど問題とされていない。さらに、ちまたの姓名判断の鑑定家の中にも因縁という概念を用いて説明する者もおり、阿含宗でもほぼ同様の因縁が語られていることも認めている。占いにしても、因縁にしても、儒教と先祖崇拝が強い東アジアの宗教文化の要素として認められる概念なので、それ自体は否定も肯定もしないというのが櫻井氏の立場なのであろう。

 櫻井氏はまた、この姓名判断が入り口に過ぎず、「この鑑定は統一教会の教義である統一原理とは直接的な関係がない」(p.225)ことも認めている。これは私がこのブログのシリーズ「霊感商法とは何だったのか?」で述べてきたことと基本的に同じである。そのシリーズの議論において私は、世間から「霊感商法」と呼ばれた一連の現象が持っていた宗教的な意味を、一種の「シンクレティズム」であったと結論づけた。その理由は、印鑑、壷、多宝塔などの開運商品の販売行為に、統一教会の一部の信者が関与していたにも関わらず、その販売の際に使用された宗教的トークの中には、手相、姓名判断、四柱推命などの易学や、家計図を分析して因果応報の法則を説くなど、統一教会の正式な教理解説書である『原理講論』からは直接導き出されないような宗教的概念が混入していたからである。このような現象は、韓国やアメリカを初めとして海外の統一教会の信徒の間ではまったく見られない日本独自のものである。またその信仰内容も、キリスト教というよりはむしろ日本の土着の宗教性に近いものであったと言える。

 手相、骨相、姓名判断などは、日本では極めてポピュラーな占いであり、印鑑に吉相印と凶相印があるという概念も、極めて広く行き渡っている。また、大理石やさまざまな貴石が何らかの霊力を宿しており、特定の石をさすったり、保持したりすると運が開け、あるいは病気が治り、痛みが和らぐといった信仰は、世界各地に見いだすことができる。したがって一連の開運商品を販売していたトーカーたちの説いていた内容は、「統一原理」とは直接関係のない民間信仰的な性格の強いものであった。

 しかし、これらの開運商品を販売していた「全国しあわせサークル連絡協議会」では、顧客を対象に「統一原理」を分かりやすく噛みくだいた内容のセミナーを独自で開催し、それによって彼らを教育していた。したがってこれらの顧客には開運商品を購入したときの宗教的トークと「統一原理」とが、同一もしくは連続的な宗教的教理であるかのように受け取られていたのである。この結果、彼らの中では日本の土着の宗教概念と「統一原理」の教えが渾然一体となり、あたかも「統一原理」の教えに基づいて開運商品の販売がなされているかのように誤解される原因となった。

 櫻井氏は、このような教義的な必然のない話を信仰への導入で使うことに対して、三つの意味を見いだしている。
「(1)姓名判断に信憑性あり(嘘とまで言い切れる人は少ないだろう)とする日本人の心性にスゥーと入り、本人や家族の事情を把握するのにうってつけの方法であり、まさに導入に使えるからだ」(p.225)

 姓名判断を嘘とまで言い切れる人が少ないという櫻井氏の表現は、過剰評価と言える。世の中には占いの類をまったく信じない、唯物的で合理的な人間もたくさんいるからだ。手相や姓名判断は日本ではポピュラーな占いであるとはいえ、それを信じる人はある特定の層の人々であり、大多数の日本人が受け入れているわけではない。占いを信じるという人は神秘的で直感的な傾向を持った人々であり、目に見えないものを信じるという点において宗教性に通じている。占いを導入としてアプローチするということは、宗教的な素養を持つ人とそうでない人を最初の段階で選り分けていると言えるのかもしれない。

 櫻井氏の言う「本人や家族の事情を把握するのにうってつけ」というのは、当たっていると評価することができる。人は通常、初めて会った人に自分のプライバシーにかかわることや悩みなどをいきなり話したりしないものだ。しかし、「占い」という場には自然とそうしたことを話すことができる雰囲気がある。伝道はまず人の悩みを聞き、それを解決する道を示すことによってなされる。統一教会の信徒たちの中には、手相や姓名判断そのものを信じていたというよりも、その話題を通して相手の悩みを聞きだし、それを解決する手段として最終的に「み言葉」を伝えるための方便と考えていたものが多いのではないかと思われる。その根拠としては、印鑑販売や伝道の入り口では手相や生命判断の話をしたとしても、自分自身の信仰生活や課題の解決においてそれらが重要な役割を果たしていたとは言えないからである。むしろ、み言葉を聞き、メシヤに出会い、祝福を受ければ、手相や姓名判断に現れる次元の運勢は超克できるものと理解されていたようである。
「(2)中高年の人達にとって統一教会が一貫して教えていることは先祖の怨みや祟り、霊の障りであり、家族の系譜関係に基づく因縁である。これが信仰のベースになっている」(p.226)

 私がこのブログのシリーズ「霊感商法とは何だったのか?」で詳しく解説したように、先祖の因縁と統一原理の「蕩減」の概念には連続性と不連続性があり、それらは同一視することはできないものである。しかしながら、日本の土着の概念である先祖の因縁を媒介として統一原理を理解した人々は、その連続性ばかりが強調されて、渾然一体となっていたであろうことは十分に推察される。「中高年」という年齢層が問題というよりは、キリスト教的なものとして統一原理を受け取ったのか、占いや因縁論などの日本の土着の宗教性の延長線上に統一原理を理解したのかという「入り口」のあり方が、その後の信仰のあり方に大きく影響を与えたと言えるのではないだろうか。
「(3)姓名判断という占いは筮竹や算木を用いた易や四柱推命よりも単純である。画数を計算して数ごとの吉凶をあてはめてトーク・マニュアルを作成することが容易であり、素人占い師を大量に養成することができる」(p.226)

 これは多分に後付けの解釈であり、実際にそうしたことを計算して姓名判断が選択されたとは思えない。印鑑等の販売に関わっていた統一教会の信者たちの中で、最初から占い師を目指して本格的な勉強をし、それが動機となって販売活動を行っていた者はほとんどいない。その意味で彼らのほとんどが「養成された」占い師であったとは言えるだろうが、なぜ姓名判断だったのかという問いに対する合理的な答えを追求することにそれほど意味があるとは思えない。それはなぜ印鑑だったのか、なぜ壺だったのか、なぜ多宝塔だったのかという問いと同じで、信徒たちが実績を出すために努力する中で、誰かが成功事例を生み出し、それを全体が相続するようになったというだけのことである。それは客観的に見れば偶然の産物であり、誰かが緻密に計算したり計画してそうなったというものではない。そこに神や霊界が働いたとか、天の啓示であったとかいうのが、後付けの主観的な解釈であるのと同じくらい、易や四柱推命よりも姓名判断の方が単純だから選ばれたというのも、後からもっともらしい理由をつけただけの主観的な解釈に過ぎない。

 櫻井氏はまたしても「印鑑トーク」を自分自身に当てはめて、トークの実例を紹介している(p.226-6)。そして「このようなトークを一、二時間受ければ、せめて印鑑くらい買った方がいいのではないかという気分になるのではないか」(p.227)と述べているが、これも過剰評価である。現実には、印鑑のトークを受けても購入に同意する者は少なく、それほど効率が良いものではない。販売や伝道の現場は、実際には否定の連続であり、受け入れる人はごく僅かである。それをあたかも巧妙な勧誘手段であるかのように櫻井氏が描写するのは、その効果を過大評価して民事訴訟で損害賠償を勝ち取ろうとする原告側の主張に、櫻井氏が完全に依拠しているためである。

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