ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳12


第2章(5)

 アダムとエバの罪が性的なものであったことは、文師の説教の一つにおいても明らかである。それは「男と女の関係」という題がつけられたもので、1973年に一人の信頼する男性信者が不倫の罪を犯した直後の説教である。彼らの師の言葉をここではあまり文字通りに解釈しないよう私に警告したメンバーもいたが、いくつかの言葉は宗教的義憤のレトリック以上のものであった。「貞操と純潔を守ることは私たちの団体では最も重要なことです。・・・私はこのことには大変厳しいのです・・・」(注42)その次に、以下のような非常に明快な一節が続く:
「以前に言ったように、それ(性的不道徳)は殺人よりも悪いのです。もしあなたが人を殺せば、あなたが殺すのは一人です。しかし、それを行えばあなたは自分の子孫と血統を殺すことになるのです。・・・はっきり分かりました? あなたの一つの罪の行為が、あなたの先祖と、その先祖の結実である未来の後孫たちに影響を与えるのです。」(注43)

 ここでのポイントは明らかである。不倫なる性関係はアダムとエバの罪を繰り返すことであり、その他の罪の行為とは違って人間の救いと関わりがあるということだ。したがって、堕落の正しい理解は、運動の基本的な神学的立場を前提とすれば、愛の動機と不倫なる性行為の両方を含んでいなければならないということは確かである。実際に、本章の次の節で見るように、神の前における個人の特定の役割にふさわしい性行為は、堕落した世界の救済にとって不可欠である。言い換えれば、堕落の教義は復帰の教義と論理的に関わっているのである。

 堕落の有効な要約は、「堕落性本性」と題する原理講論の節に明示されている。(注44)この一節は堕落と復帰の論理的な関係を示している。それはまた、第7章で統一教会の実践を解釈する上で用いられた社会学的な役割理論が、なぜ神学的に妥当なのかを説明する良い理由を提供している! 堕落性本性は、さらに正確な表現をすれば、堕落性(注45)は、性交を通して(注46)、エバがルーシェルから受け継ぎ、次にアダムに伝播した四つの特徴からなっている。

 「他者を愛することにおいて神と同じ立場に立てない」ことは、堕落性の第一の特徴である。(注47)天使長は、神が愛するようにアダムを愛することができない嫉妬によってエバを汚した。神の愛によって他者を愛するという理想は汚され、利己的な愛が堕落した人類の生き方となった。

 第二の特徴である「自己の位置を離れる」(注48)は、サタンが被造世界において与えられた役割は天使たちの前で神の代身となることであったが、彼はその責任を離れて、人間社会においても同様な位置を得ることを望んだという事実によって説明される。「不義な感情をもって、自己の分限と位置を離れるというような行動は、みなこの堕落性本性の発露である。」(注49)この記述が統一教会のメンバーに共通の態度や行動という観点から解釈されるとき、それは運動の社会学的分析において重要な意味を帯びるようになる。もし役割理論が運動を理解する上での妥当性を正当化するための「証拠となる文章」を必要とするなら、原理講論からのこの一文で十分であろう。

 第三に、人間の堕落性は混乱した人間社会を生み出した。これは「主管性を転倒する」(注50)罪深い傾向の結果として生じ、それは、神の本然の永遠なる目的とは正反対のやり方で関係を成立させることである。本来ならば人間の主管を受けるべきであった天使長が、エバを主管した。さらに、神はエバがアダムに従うことを意図したが、この秩序も逆転された。エバがアダムを誘惑し主管したのである。「自己の位置を離れて、主管性を転倒するところから、人間社会の秩序が乱れるのである」(注51)

 第四の、そして最後の特徴は、「犯罪行為を繁殖する」(注52)傾向である。より最近の修正された著作の言葉でいえば、「不義の心と犯罪行為を繁殖する」(注53)性質である。

 上記の議論は性の問題が統一神学のまさに中心において重要な位置を占めていることを決定的に示している。誤った愛や欲望が堕落の動機となったことは疑いがないが、最初の罪の行為としての性交は、原理講論によって明確に主張されているだけでなく、運動の神学が体系的一貫性を成し維持するためには必要不可欠な信念なのである。アダムとエバの罪は、創世記の記述の歴史的根拠がどうであれ、論理的に不倫なる性行為の観点から理解されなければならない。もしそうでなければ、サタンからエバとアダムに、そして彼らを通して全人類に伝播されたという原罪の教義は、合理的な根拠を失うであろう。さらに、以下にみるように、復帰の教義のキーポイントも基本的に性的な性格を持つものとしての原罪の理解に論理的に依拠しているのである。(注54)

 不倫なる性交が最初の罪の行為であったという事実は、性そのものが罪深いということを意味しない。性行為は、それがある人に神が与えた役割を外れ、神ではなく自己を中心とする愛を動機としているときに悪となるのである。エバが神に背を向けてサタンのもとに行ったとき、彼女の心は体をコントロールすることができなくなり、彼女は天使長の誘惑に対して脆弱になったのであった。したがって、性は、堕落世界における人間の生活の他の側面と同様に、本然の善なる状態に復帰されなければならないのである。

(注42)文鮮明「男と女の関係」『マスター・スピークス』(MS-369、1973年5月20日)、p.1
(注43)前掲書、p.2
(注44)『原理講論』、p.89-91
(注45)『統一原理解説』、p.51
(注46)性格の特性が性交を通してどのように伝播されていくかに関しては、『原理講論』にも、他のどこにも説明はない。
(注47)『原理講論』、p.90
(注48)前掲書、p.90
(注49)前掲書、p.91
(注50)前掲書、p.91
(注51)前掲書、p.91
(注52)前掲書、p.91
(注53)『統一原理解説』、p.53
(注54)例えば、メンバーが成長段階におけるまさにアダムとエバが堕落した時点に到達したとき、彼らはマッチングのセレモニーに参加する。ここで文師は各々のメンバーに配偶者を推薦する。マッチングのプロセスが完了すると、新しいカップルは各々聖酒式に参加する。そこでは真の父母である文師夫妻との新しい「血縁関係」が成立することにより、原罪が典礼的に取り除かれる。この儀式は性的な性格を持つものではないが、文師は象徴的にアダムの役割をし、花嫁はエバであり、花婿は天使長である。この儀式において用いられるワインは、少量の真の父母の血を含んでいる。この儀式全体については第5章で詳細に論じられるであろう。

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