書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』21


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第21回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第3章 統一教会の教団形成と宣教戦略」の続き

 前回は櫻井氏の宣教の戦略論についての仮説①「ローカルな(民俗文化や民族主義が濃厚な)宗教運動が他の地域に伝播する場合は、グローバルな(歴史文明や普遍主義を加味した)宗教運動を装って宣教を行う」の内容を批判した。

 今回は彼の仮説②「ローカルな宗教運動が他の地域に伝播する場合は、当該地域のローカルな宗教文化を装って宣教を行う」(p.82)の内容を批判することにする。この仮説で櫻井氏が展開しているのは基本的には「土着化論」である。この「土着化」という言葉は、通常はキリスト教や仏教などの普遍宗教が異文化圏に伝えられるときに用いられる言葉であり、とくに西洋の宗教であるキリスト教がそれ以外の文化圏に宣教される際に頻繁に使われる傾向がある。異文化圏から伝わってきた宗教が、宣教地の文化的土壌になじんで、その土地独自の宗教形態を発展させていく過程を「土着化」という。例えば、キリスト教が日本に土着化するということは、キリスト教がその宗教的本質を保ったまま、日本人が文化的異質性や抵抗を感じないような、「日本的な」宗教となることを意味する。

 キリスト教の宣教学の立場では、土着化とは西洋のキリスト教を宣教地にそのまま植え付けるのではなく、その地の土着の文化の一部として相応しい形で植え付けることを言う。しかし、それでキリスト教の本質的な部分が失われてしまっては元も子もないので、宣教師たちは「純粋な信仰と本質的な福音」を保ちつつ、それに「土着の衣」を与えるという難しい作業に取り組むことになる。キリスト教の土着化は、「いかにして本質的、超文化的な福音の核心を、それが伝えられ、共有される際の手段である非キリスト教的な形式に汚染されることなく、他の文化圏の新しい信者に伝えるか?」(Alan R. Tippett, “Christopaganism or Indigenous Christianity” in Yamamori, Tetsunao and Charles R. Taber, ed. ”Christopaganism or Indigenous Christianity?” South Pasadena, Calif: William Carey Library, 1975, p.14.)というような表現で定義される。ここでは、キリスト教が普遍宗教であるがゆえに福音の核心は本質的であり超文化的であるとされ、それが表現される非キリスト教的な形式は「土着の衣」に過ぎないと理解されている。これは櫻井氏のいう「当該地域のローカルな宗教文化を装う」ということと同義である。

 したがって、ローカルな宗教文化を装って土着化する宗教は、それを超越した普遍的な本質を持っていなければならず、それがなければ単なる「変質」になってしまう。その意味では土着化を志向する宗教は基本的には普遍宗教でなければならないのだ。そもそも、文化の壁を超えて全人類に教えを宣べ伝えようとするのは普遍宗教の特徴であり、国家や民族に縛られた宗教は、通常はその壁を超えて宣教しようとはしないものである。にもかかわらず、櫻井氏は「ローカルな宗教運動が他の地域に伝播する」という状況について論じているため、話が分かりにくくなっている。ローカルな宗教なら、通常は他の地域に積極的に伝播しようとはしないはずだからである。こうした無理な設定の背後にも、統一教会を普遍宗教であると認めたくないという彼の心理が働いていると思われる。彼の信念によれば、統一教会は本質的には韓国の民族宗教に過ぎないのだから、あくまで「ローカルな宗教」でなければならず、普遍的で超文化的な本質などという贅沢なものは認めないということなのである。彼の論理展開が破たんしているのは、そうした強い思い込みや偏見によって自縄自縛に陥っているためであると考えられる。

 仮説①において櫻井氏は、統一教会はハイカルチャーであるキリスト教を「装って」日本宣教の基盤を築いたとする。しかし、キリスト教は日本においてはマイノリティーであったから、「この戦略だけでは信者獲得に限界があった」(p.83)ために、仮説②の戦略へ切り替えていったと論じるのである。その際に日本のローカルな宗教文化として挙げられているのが先祖祭祀、御霊信仰、シャーマニズム、卜占などであり、結果として姓名判断、家系図診断を通した勧誘が行われるようになったと論じている。1998年に創設された天地正教もまた、こうした土着化路線の一環であるとしている。

 実はこの辺で櫻井氏が述べている内容は、筆者がこのブログの別のシリーズである「霊感商法とは何だったのか?」の中で述べていることと基本的には同じである。その内容を要約すれば、統一教会がキリスト教を日本に土着化させることに成功したポイントはキリスト教信仰と日本の土着の宗教文化の融合にあるということである。中でも重要なのは先祖の問題である。先祖崇拝や先祖供養を受け入れるかどうかは、長い間キリスト教宣教師たちの大問題であった。一応それを「文化風習として否定はしない」として寛容な態度をとったとしても、神学的には積極的な意味を見いだせず、救いの問題と直結させるような神学的展開はできない。一方で、統一原理は血統と罪の間に密接な関係を見いだしているので、仏教において「先祖の因縁」として理解されてきた内容を、神学的に整理・包含することができる。そして「神に対する信仰」と「先祖の供養」を矛盾なく一つにまとめることができたのである。つまり統一教会の提示したキリスト教は、日本人にとって分かりやすく、受け入れやすいものであった。日本における統一教会の成功の原因は、このようなキリスト教と日本の土着の宗教文化の融合にあったとみることができる。

 しかしながら、このような融合にはプラスの側面だけでなく、マイナスの側面もあったことも筆者は指摘した。それは、統一原理の教えと、日本の土着の宗教文化が融合することによって起こるシンクレティズム(syncretism)である。筆者は、「霊感商法」の本質はシンクレティズムであったという立場から、「霊感商法とは何だったのか?」を執筆した。詳しくはこのシリーズの本文を読んでいただきたい。櫻井氏と筆者の主張の違いは、彼が統一教会の本質を韓国の民族宗教でありローカルな宗教であるとしているのに対して、私は統一教会の本質はキリスト教であり普遍宗教であるとしている点である。普遍宗教であるからこそ、土着化やシンクレティズムという問題が生じるのである。

 櫻井氏は現在の統一教会は上記の①の戦略も②の戦略も取っていないと分析している。(p.85)これは要するに、普遍宗教としてのキリスト教を装うのでもなく、日本のローカルな宗教伝統を装うこともやめたという意味であり、韓国の民族宗教としての姿をいわば丸出しにして日本で宣教していることを意味する。「他国のナショナリズムをそのまま受容するような国はない」はずだから、「いずれこの戦略に限界は来ると思われる」としながらも、それでも「日本宣教50周年を迎えた統一教会の基盤は依然として強く、また二世、三世の信者達も多い。」(p.85)という、なにやら釈然としない現状分析を櫻井氏は行っている。

 このテーマに関する筆者の分析はこうである。もともと統一教会は普遍宗教であったため、キリスト教的メッセージに相対する一部の層を惹きつけて日本の宣教基盤を作った。これは「装い」ではなく「本質」であったために、いまでも普遍宗教としての統一教会の強さは健在である。宣教50周年を超えても依然として強い基盤を持ち、二世、三世たちに信仰が受け継がれているのは、統一教会の教えの中に普遍的真理があるからである。

 一方で、日本への土着化戦略に関しては確かに一時期よりも衰退していると言えるであろう。その原因は、まず「霊感商法」が批判されることによって、開運商品を入り口とする伝道を行っていた一部信者の活動が制限されるようになったことにある。次に天地正教は、霊感商法が日本において社会的批判を浴びた後に、「霊石愛好会」を経て創設された、弥勒信仰に基づく仏教教団であったが、これは本質的には統一原理の仏教的解釈と展開による土着化の試みであった。それは一定の成功を収める可能性を秘めていたが、結果的には1999年に消滅してしまったために、この土着化路線も途中で挫折した。

 実際には、信徒たちによる「先祖の因縁話」や「霊能力」を用いた献金勧誘活動は2000年代後半まで継続し、それが民法上の不法行為と認定されたり、警察の捜査の対象となったりした。そこで2009年3月25日に徳野英治会長による教会員に対するコンプライアンスの指導が出され、「献金と先祖の因縁等を殊更に結びつけた献金奨励・勧誘行為をしない。また、霊能力に長けていると言われる人物をして、その霊能力を用いた献金の奨励・勧誘行為をさせない」ことを遵守するように通達が出された。これによって統一教会の教えを日本の宗教文化に土着化させる試みはさらに困難になった。

 現在の日本統一教会は、土着化路線からもう一度普遍宗教としての本質に返り、統一原理のみ言を直接伝えながら、自らのアイデンィティーを隠すことなく堂々と証ししつつ、日本社会に対する宣教を行うことに挑戦しているとみることができる。

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