ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳09


第2章(2)

原理講論の神は永遠に自存する絶対者であり、その万有原力は神が存在するための根本的な力であると同時に、創造のための根本的な力である。(注11)被造物の中で作用して、この力は創造のプロセスにおける「授受作用」を開始し、維持する。各々の被造物(人間および人間以外)は、それ自体のために作られたのではなく、他の存在との間に相対的関係を結ぶために作られた。「すべての存在を構成している主体と対象は、授受作用するときに、その存在のためのすべての力、すなわち存在と繁殖と作用などのための力を発生する。」(注12)考え得るすべての関係は、神の意図に従って、主体と対象の間の良き授受作用によって特徴付けられる。たとえば、神の心情は人間に対して愛を与え、人間は神に喜びを返すことによってそれに報いる。さらに、理想的な関係が展開するためには、与えることが受けることに先立たなければならない。あるいは、それをより最近の統一神学の解釈に従って言えば、授受作用の前に相対基準を造成しなければならず、それは「主体と対象が自身の『個体目的』よりも『全体目的』を優先するときに」(注13)生じるのである。このことから、自己中心的な個人主義が授受作用の可能性そのものを否定することは明らかである。

主体と対象が授受作用を行うとき、それらは一体となって神の新たな対象となる。このプロセスは「正分合作用」(注14)と呼ばれ、関連する例を用いれば、神が「正」であり、夫(主体)と妻(対象)が「分」を表し、そして子女は授受作用の実として「合」を表す。

正分合作用の構造、すなわち「四位基台」は、統一神学のまさに中心に位置する。(注15)四位基台は、各存在(神、夫、妻、子女、上記の例の続き)が他の三者に対して主体の立場に立ち、「三対象目的」を完成させるときに造成される。したがって、
「四位基台は、神と分立された主体、対象とその合性体の四つの要素が、各々三対象目的を完成させることによって、六対の授受作用で構成される力の基盤である。」(注16)

以下の図は、結婚という状況においてこの考えを図示したものである:

四位基台

このように、理想的な四位基台は主体と対象を一つにする授受作用が神を中心としているときに実現される。この基台は、神の創造目的を成就するための基盤を形成するものであるが故に極めて重要である。

神の目的を理解するためには、愛の対象を求める神の心情を理解しなければならない。そして神が宇宙を創造した動機は、自身の性相を反映した愛の対象を持つことにより、喜びに満ちた満足感を覚えるためであった。人間は神のかたちとして創造されたため、彼または彼女は人間以外の被造物よりも神の性相を反映しているだけでなく、彼または彼女は神の愛に反応することができるため、神の心情に最も近い存在なのである。(注17)

神の創造目的は、創世記1章28節において最も明確に示されていると理解されており、統一教会の三大祝福の思想はこの聖句に基いている。この思想は、人間が神に喜びを返すというその存在目的を成就することのできる構造を提供するものである。人間はこれら三つの祝福をすべて成就することのできる成長と成熟のプロセスを通過してのみ、神の「完全な対象」となることができるのである。この成長期間の間は、神は人間を原理(注18)と戒め(注19)によって間接的に主管する。人間が霊的、心理的、身体的成熟として定義される完成に到達したとき、彼または彼女は神の心情と一つとなり、この段階に入って神は愛によって直接主管する。完成した人間はもはや罪を犯すことができない。

個々の祝福は、四位基台を造成した基盤の上に実現される。第一祝福(「生育せよ」)は、完全に神を中心とする生活の中で個人の心と体が一体となって完成する可能性のことである。アダムとエバは神が見てはなはだ良かったと言った被造物の一部であったけれども、彼らは完成した状態で創られたわけではなかった。もし彼らが完成していたのであれば、彼らは神の戒めを破ることはできなかったであろう。もし彼らが個性完成(第一祝福)を成し遂げていたならば、彼らは神の心情と一つになり、神の愛によって直接主管されていたので、神に反逆することはできなかったであろう。

もしアダムとエバが個人として完成していたならば、彼らは第二祝福(「繁殖せよ」)、すなわち理想的な結婚と家庭の形成を実現するための霊的な準備が出来ていたであろう。(注20)この場合、神の愛が夫(主体)と妻(対象)の間の授受作用の中に実現され、二人の愛の合一を象徴する子女を持ったときに、四位基台は造成される。もしアダムとエバがこの祝福を成就していれば、彼らは全人類の真の父母となり、彼らの善の子女を通して、地上に天国を実現していたであろう。

完成段階まで成長した夫と妻の関係は、動的な愛と美の相互作用として描かれている。
「神と人間について例をとれば、神は愛の主体であり、人間は美の対象である。男女については、男子は愛の主体であり、女子は美の対象である。・・・しかし、主体と対象とが合性一体化すれば、美にも愛が、愛にも美が内包されるようになる。なぜかといえば、主体と対象とが互いに回転して一体となれば、主体も対象の立場に、対象も主体の立場に立つことができるからである。」(注21)

運動における男女の役割分担を理解する上での上記の文章の重要性に関しては、第6章で論じることにする。しかし、第二祝福における愛の神学的重要性は、この時点でさらに議論する必要がある。結婚と家庭において、神の愛は三つの基本形として実現されるべきものである。
「神を中心としてその二性性相の実体対象として完成されたアダムとエバが一体となり、子女を生み殖やして、父母の愛(第一対象の愛)、夫婦の愛(第二対象の愛)、子女の愛(第三対象の愛)など、創造本然の三対象の愛を体恤することによってのみ、三対象目的を完成し、四位基台を完成した存在として、人間創造の目的を完成するようになる。このような四位基台の三対象の愛において、その主体的な愛が、まさしく神の愛なのである。それゆえ、神の愛は三対象の愛として現れ、四位基台造成のための根本的な力となるのである。」(注22)

(注11)統一神学が被造物の中に万有原力として神が内在していることを強調しているのは、いくつかの点でアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドの思想と似ている。(彼の『宗教とその形成』[ニューヨーク:ワールド出版社:1954]、pp.107-115を参照のこと。)
(注12)『統一原理解説』、pp.14-15
(注13)前掲書、p.20
(注14)『原理講論』、p.31
(注15)このことは『原理講論』の組織的構造において明らかなだけでなく、運動のその他の出版物、および私がインタビューした人々によってこの教義が強調されたことによって立証された。
(注16)『統一原理解説』、p.21
(注17)統一神学は、人間が神を必要とするという西洋の概念を保持しつつも、神が人間を必要とするという東洋の概念をも強調する。この神と人間との相対的関係は、『原理講論』における一般的な傾向の一例である。一方で、その多くの言葉遣いと主張は神と被造物は明確に異なる存在であるという西洋的な理解の様式を示しているが、他方で、『原理講論』には東洋の流出説の痕跡が十分にある。
(注18)「原理」という言葉は、宇宙における自然の秩序に内在する神の法則を指しており、神の新しい啓示としての『原理講論』とは区別される。(訳注:英語で表記するとどちらも「Divine Princile」となるため、グレイス博士は下線なしを神の法則を意味するときに、下線ありを書物を意味するときに用いることによって差別化を図っている。)
(注19)例えば、創世記2章17節。
(注20)創世記1章28節の解釈において、統一神学はより標準的なキリスト教の釈義から逸脱している。それは「生めよ、ふえよ」を繁殖に対する単独の祝福であると見ている。『解釈者の聖書』1(ニューヨーク:アビングドン出版、1952年):485-486を参照のこと。
(注21)『原理講論』、p.48-49
(注22)前掲書、p.49

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