ジェームズ・グレイス「統一運動における性と結婚」日本語訳10


第2章(3)

 統一神学における夫婦愛の神聖化は、運動における結婚に対する全般的なアプローチと結婚に対する個人の態度を理解する上で重要な意味合いを持っている。これらの意味合いはおもに第5章で扱われるであろう。
 第三祝福(「主管せよ」)は、人間の共同体と人間以外の被造物との関係における四位基台の造成について論じている。その関係は最初の二つの祝福と同様に神を中心としている。人間は被造物全体を主管する権利を神から与えられているだけでなく、彼または彼女は「愛による主管」をなすことができる。なぜなら、「神は人間をつくられる前に、これから創造されるであろう人間を標準として万物世界を創造された。・・・このように、人間は自己の性相と形状に似た万物世界を愛し、そこから来る刺激によって喜びを感じるようになる。」(注23)

堕落の教義

 性と結婚は創造の教義において不可欠な部分ではあるが、性の問題は統一神学の堕落の教義においては、まさに中心に位置している。堕落の解釈をする上で性の問題をどの程度強調すべきかに関して運動内においてコンセンサスがあるようには見えないが(注24)、アダムとエバの最初の罪の「行為」が性交であったこということは全般的に認められている。

 原理講論は「今まで罪の根がいったい何であるかを知る者は一人もいなかった」(注25)と主張している。これが明らかに意味していることは、原理講論は文師が神から受けた新しい啓示を弟子たちが記録したものであるため、文師こそが堕落の真の原因を知っているその「一人」であるということだ。事実、運動内の口伝によれば、最初の罪が「性交」であるという知識は、文師がその秘密を発見した霊界への旅の間に現れたものであり、それによって彼は再臨主となるための神の任命を確実なものにしたのであるという。(注26)文の根本的な洞察を踏まえて、統一教会の著名な神学者である金永雲は、慎重で筋の通った、歴史に基づいた議論によって、堕落に関するこの見解に対する支持を展開した。(注27)しかし私が話したメンバーたちは、原理講論における堕落の説明をただ信仰によって受け入れるか、それを比喩的に解釈するかのどちらかである傾向にあった。

 原理講論によれば、人間は意識的に善を行おうと望んでいるにもかかわらず、悪を行わざるを得ないという事実に鑑みて、堕落に関する真の説明は必ず必要であるという。それは彼らが、キリスト教ではサタンと呼ばれているある「悪の力」に、「自分も知らずに駆られ」ているためである。(注28)このサタンの力を克服し、地上に善なる時代を開始するためには、サタンの性質と動機、そして堕落におけるその役割について理解する必要があるのである。

 罪の根を理解する鍵は、エデンの園にあった二本の木の正しい解釈にある。命の木は「創造理想を完成した男性」を象徴しており、アダム、イエス、(コリント人への第一の手紙15章45節)(注29)および再臨主(黙示録22章14節)と関連づけられている。アダムに関しては、それは彼がエデンの園において目指していた完成を象徴している。もしアダムが罪を犯さなかったら、彼は命の木になっていたはずであり、それは彼が創造目的を成就することを意味していた。

 善悪を知る木は「エバの木」を象徴しており、命の木とともに、「神のエデン創造理想の中心核がアダムとエバであった」(注30)ということを意味している。善悪を知る木は女性を表しているため、その木の「実」もまたエバに関係しているのである。

 原理講論は、エバを誘惑した蛇の正体を天使長ルーシェル(黙示録12:9およびぺテロの第二の手紙2:4)であるとしている。彼が神に対して犯した罪は、「不自然な欲望」を動機をするものであり、淫行という形で現れた。(ユダの手紙1:6-7)天の王宮の天使長として、サタンは彼を通して神の祝福が天使界の者たちに伝えられる特別な仲介者であった。神がアダムとエバをご自身の子女として創造されたとき、僕に過ぎなかったサタンは、彼らに向けられた神の大きな愛に対して嫉妬を覚えるようになった。さらに、神から愛された結果としてエバはますます美しなっていったため、サタンはエバに強く魅かれるようになった。彼は、彼女と一つになることにより、自身もまた神がアダムとエバのみに与えたのと同じ量の愛を受けれらるのではないかと思ったのである。

 エバはサタンと性交をすることによって罪を犯した。(注31)したがって善悪を知る木の実とは、エバが「天使(サタン)と彼を中心とする彼女の悪なる愛によって血縁関係を持った」(注32)ことを意味するのは明らかである。サタンとの血縁関係は、「霊的堕落」と呼ばれるものを引き起こした。

 サタンとの不倫なる接触の結果として、エバは良心の呵責の表れであるとされている恐怖を感じた。彼女はまた、神の意図した配偶者は天使ではなくアダムであったということに気付いた。彼女の恐怖を和らげるために、また彼女の夫となるべき人であるアダムを通して神に帰ることを期待して、彼女はアダムを誘惑した。(注33)この不倫なる関係は、それもまた「愛の誤用」に基づいていたという点において、肉的堕落を引き越した。「アダムはエバと一体となることによって、エバが天使長から受けたすべての要素をそのまま受け継ぐようになった。そしてこの要素は、その子孫に綿々と遺伝されてきたのである。」(注34)

(注23)『統一原理解説』、p.25
(注24)問題となっているのは堕落の神学的理解において、アダムとエバの不倫なる性「行為」が不可欠なものであったかどうかということである。不倫なる性交が神学的に必要不可欠であると主張する者もいれば、アダムとエバの動機、すなわち方向性を誤った愛こそが本質であると主張する者もいる。こうした違いは私が行ったインタビューによって明らかになった。ブライアントとホッジス『統一神学探求』、pp.8-10における活発な議論も参照のこと。
(注25)『原理講論』、p.66
(注26)ロフランド『終末論を説くカルト』、pp.23-24。私のインタビュー対象の何人かはこのストーリーを知っていたが、知らない者もいた。N・P・パウエル(『堕落と原罪の思想』[ロンドン:ロングマンズ、グリーン、および株式会社、1927年]、pp.xii; 45; 58; 77; 86; 204; 226; 227; 271-273; 304; 411)とF・R・テナント(『堕落と原罪の教義に関する資料』[ニューヨーク:ショッケン・ブックス、1968年]、pp.152-153; 159; 191; 208)が、二人とも堕落に関するこの見解はまったく「新しい」ものではなく、4世紀のキリスト教徒において一般的な見解であったことを示しているのは興味深い。また、シェイカーの創設者であるアン・リーもこの見解を持っていた。最後に、多くの在家のクリスチャンたちが原罪は性交であるとみなしてきたと信じるに足るいくつかの理由がある。
(注27)金永雲『統一神学とキリスト教思想』、1975年
(注28)『原理講論』、p.65
(注29)『統一原理解説』、p.40
(注30)前掲書、p.41
(注31)『原理講論』、p.74。天使がいかにして人間と「物理的な」接触を持てるかについての「説明」に関しては、『統一原理解説』p.77をも参照のこと。
(注32)前掲書、p.77
(注33)『原理講論』と『統一原理解説』はともにエバが主導してアダムを誘惑したことを強調している。私はアダムの動機もまた神よりも彼自身を中心とする愛であったと思うが、このポイントは統一神学のこれら二つの主要な資料においては強調されていない。
(注34)『統一原理解説』p.47

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