書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』57


櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第57回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

櫻井氏は、自らの研究の調査対象について、以下のように述べている。
「統一教会の布教形態は未婚者対応のものと既婚者対応のものに二分される。教義上の中核的儀礼が祝福なので、原罪のない子を生める可能性がある未婚者と、それができない既婚者とでは信者としてのライフコースが異なる。もちろん、既婚者であっても、さらに夫が統一教会に反対していたとしても、信者である妻は合同結婚式に参加し、既成祝福というカテゴリーの儀礼を受けることができる。しかし、これは教団の資金調達が逼迫して、教説を多少転換しても信者からの献金(祝福献金)を増やしたいという背景から出てきたものと解釈される。」(p.204)

この解釈は間違っている。このような初歩的な誤りは、櫻井氏の祝福の歴史に対する無知から来ている。「既成祝福」は教団の資金調達が逼迫した結果として生じた教説の転換ではなく、祝福そのものの歴史と同じくらい古くからあるものである。まず、文鮮明師から最初に祝福を受けた3家庭のうち、金元弼先生の家庭は既成祝福であった。そして、その3家庭を含む36家庭が祝福の歴史の中では最も古い家庭に属するが、その3分の1に当たる12家庭が既成祝福である。日本人としては初めて祝福を受けた久保木修己会長の家庭も、統一教会に出会う前に既に結婚していた既成家庭であった。そして日本で最初に祝福が行われたのが1969年5月1日であったが、このときの22組のうち12組がマッチングによる祝福であり、10組が既成家庭であった。これらの事実から、文鮮明師は統一教会に出会う前に結婚していたカップルに対しても、初めから既成祝福という救いの道を準備していたことが分かる。

さらに、既婚者は原罪のない子を生めないという櫻井氏の解説も間違っている。統一教会に出会ったときに既に結婚していたとしても、そのカップルが子供を生むことができる程度に若ければ、原罪のない子供を生むことは可能である。祝福を受ける以前の子供は原罪を持った子供で「信仰二世」と呼ばれているが、祝福を受けた後に生まれた子供は原罪のない「祝福二世」として、マッチングカップルから生まれた子供と同じ扱いを受けるようになっているからである。櫻井氏は現役の統一教会信者を直接調査していないので、こうした初歩的な誤解や間違いが多い。

櫻井氏は、自身の調査対象となった元統一教会信者の社会的背景について、以下のような特徴を明らかにしている。
「信者の家族構成を見ると、ほぼ標準的な家庭であることがわかる(表6-2)。青年は両親健在であり、壮婦は配偶者がいる。特に家族的問題を抱えていたとか、不幸な生い立ちだたっという人は少ない。青年信者の教育歴に関してみると、専門学校・短期大学を含む高等教育を受けたものは半数を超え、同世代の高等教育修了者より若干高い程度である。もちろん、女性が多いために、専門学校・看護学校・短期大学だけで二四名(三六パーセント)もいる(図6-3)。」(p.206)

こうした櫻井氏の調査結果は、アイリーン・バーカーによるイギリスのムーニーの調査結果とほぼ一致していて興味深い。彼女は、ムーニーは貧困または明らかに不幸な背景を持っているという傾向にはなく、むしろ比較的幸福な幼少時代を過ごした人が多いという結果を公表している。また、ムーニーが基礎的な知識に欠けるがゆえに説得を受け入れやすいのだという証拠はほとんどなく、むしろムーニーは国民の平均よりもはるかによい成績を上げているという結果も報告している。櫻井氏の調査対象は、裁判の原告となった人が中心であるため、統一教会の平均的人口分布よりも女性の割合が高い。したがって、統一教会信者の一般的な学歴よりも短大や専門学校の割合は高くなっていると思われるが、それでも統一教会信者の学歴が同世代の若者よりも若干高いというのはイギリスの調査結果と一致していて興味深い。イギリスにおいても、日本においても、統一教会信者となるような人は、特に不幸な背景をもった人や無知な人ではなく、比較的恵まれた環境で育った、平均よりも知的に優れた人々であることが分かる。櫻井氏はこのことを簡単に報告しているだけだが、こうした信者の属性は、統一教会信者は不幸や無知に付け込まれて伝道されたわけではない、ということを示している重要な証拠の一つである。

さて、櫻井氏は本章の「3 入信の経緯と信者のライフコース」の中で、青年信者と壮婦の大きく二つに分けてそれぞれのライフコースを簡略に示している。櫻井氏の指摘するような「青年信者」と「壮婦」の間の価値的な序列は統一教会には存在しないが、伝道されたときに結婚しているかしないかによって、信仰生活のあり方やライフコースが異なることは事実である。こうしたことは統一教会以外の宗教団体でも存在し、年齢層や未婚・既婚の区別によって布教のあり方や信仰生活のスタイルが異なるのは、ある意味で当たり前と言えるだろう。ただし、統一教会においては「祝福」という結婚に関わる儀礼が救いの中心となっているために、未婚者か既婚者かでライフコースが異なるのは、教義的な必然と言える。

櫻井氏は冒頭で、「調査対象の中で自ら統一教会の門を叩いたものはない。」(p.206)と述べている。これは単なる事実の記述というよりも、統一教会信者の信仰は主体的に獲得したものではなく、勧誘と説得によって受動的に植え付けられたものであるという含意があるように感じられる。しかし、求道者が自ら訪ねてくるのを待っているような教団と、熱心に伝道活動を行う教団では、入門の仕方に大きな違いがあるのは当然であり、これ自体は善悪・優劣の判断基準にはならない。人から声をかけられて結果的に信仰に至る信徒が多いのは、伝道熱心な教団の特徴であると言えるが、勧誘されて信仰を持つようになったからといって、その人の信仰が主体的なものではないとは言えないであろう。勧誘や伝道はあくまで本人が主体的な信仰を持つようになるきっかけにすぎないからである。

櫻井氏が強調したいのはむしろ次の記述であり、「最初の時点で統一教会の布教活動を受けていることを認識していたものは皆無である。」(p.206)という部分であると思われる。これは伝道の初期における「不実表示」の問題である。これに関しては、いくつかのポイントを押さえておく必要がある。

1.統一教会の信徒たちが行っていた伝道活動において、最初から正体を明かさずに統一原理の内容を聞かせていたケースがあったのは事実である。しかし、これは限られた時代における現象であり、初期の頃は最初から宗教であることを証しし、教会の名前を明示して伝道活動を行っていたし、最近は基本的に行われていない。

2.統一教会信者全員が正体を隠した伝道活動を行っていわけではなく、いつの時代にもきちんと教会名を明示し、宗教であることを告げて伝道を行っていた信者は存在した。櫻井氏の調査した「青春を返せ」裁判の原告を中心とする元信者たちの中には、最初から正体を明かされていたものは皆無だったというが、実際には「青春を返せ」裁判の原告の中にも、最初から自分が統一教会に関わっていたことを知っていた者は存在する。

3.特に2009年以降は、統一教会本部の信者たちに対する指導により、伝道活動を行う際には最初から教会の名前を目的を明示して行うように指導がなされており、正体を明かさない伝道方法は過去のものとなっている。

4.出合った最初の段階から原理を一通り聞いてしまうまで、伝道対象者に対して、「自分は統一教会員であり、いまあなたが学んでいるのは統一教会の教義である」と正直に告げない「未証し伝道」と呼ばれるものは、一種の「欺き」と言える。この問題に関しては、アイリーン・バーカー博士が自著「ムーニーの成り立ち」の中で、その倫理的な評価はさておいて、「騙されること」が人がムーニーになるための前提条件としてどの程度機能しているのかを分析している。彼女は、①騙されたからといって全ての人がムーニーになるわけではなく、後から事実を知って去っていくものが多数存在する一方で、②騙されずに最初から統一教会だと知っていても入会するものがいる――という二つの事実から、「騙されること」は人がムーニーになるための必要条件でも十分条件でもないと分析している。次に、出合ったときに統一教会であると知っていた人の方が、知らなかった人よりも最終的に入会する割合が高いことから、「未証し伝道」は結果的に入教しそうもない人に多くの時間と労力を投入する可能性が高いことを示唆していると分析している。

以上のことから、統一教会の一部の信者が正体を隠した伝道を行っていたという事実があるからといって、統一教会信者は騙されて信仰を持つようになったのだと結論することは極めて短絡的であることが分かるであろう。現実はもっと複雑であり、実際には「未証し伝道」や「不実表示」が伝道の方法として有効であったかどうかは疑わしいのである。

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