書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』66


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第66回目である。

「第Ⅱ部 入信・回心・脱会 第六章 統一教会信者の入信・回心・脱会」の続き

 櫻井氏は本章の「三 統一教会特有の勧誘・教化」の中で、初期段階の教育が行される施設として「3 ビデオセンター」(p.228-9)についてごく簡単に説明している。初めに、「青年・学生達は勧誘された後にビデオセンターと呼ばれる統一教会の施設に連れて行かれる」(p.228)とあるが、これは事実誤認である。櫻井氏がこの説明をする際に依拠している資料は札幌地裁における「青春を返せ」裁判に提出された原告側の証拠であるが、その中に出てくるビデオセンターを宗教法人である統一教会が運営していたという事実はなかった。統一教会が運営していたのであれば、ビデオセンターが設置されていた貸しビルのフロアや賃貸マンションは借主として統一教会が契約をしていなければならず、運営の規約等にも統一教会との関係が明記され、スタッフも統一教会が雇用した人物でなければならないはずだが、そうした事実は一切なかったのである。

 これらの「ビデオセンター」は、統一教会そのものではなく、その信者たちが自主的に運営していたものであった。裁判の場では、「連絡協議会の傘下にあった施設」であるという説明がなされている。したがって、このビデオセンターは宗教法人である統一教会の布教所や伝道所として位置付けられていたものではなく、信徒の組織の顧客ケアーや、より広い意味での一般教養的内容の教育、宗教心等の涵養を目的としていたものであって、統一原理の受講のみが行われていたわけではない。ただし、そうした受講内容の中に統一原理を紹介するビデオが含まれていたために、結果としてこの「ビデオセンター」を通じて伝道された人々がいたことは事実である。その意味では、境界線の曖昧な施設であったとは言えるであろう。これでは責任の所在が曖昧になる恐れがあるため、2009年以降は、統一原理のビデオを受講する施設を運営する際には、その持主や借主を宗教法人としてきちんと登記または契約し、宗教法人の伝道所または布教所として運営するように指導が行われるようになった。

 櫻井氏はこのビデオセンターのトーカーは「トーク・マニュアルで会話の流れ、話の持っていき方を学習している」と主張して、以下のようなマニュアルの文面を紹介している。
「まずは相手の話をよく聞いて、知ってあげ、認めてあげることが大事です。賛美も美辞麗句ではなく、相手の喜ぶことを言ってあげましょう。……ゲストの前には自分はまぶしい魅力的な存在になるように、表情笑顔、相手の話を聞く姿勢、誠意、さわやかさ等、気をつけて、身体全体で話すことも必要かと思います。」(p.228)

 統一教会を相手取った訴訟で主張されているのは、マニュアルの存在自体が組織的な誘導や心理操作が行われていた証拠であるということだ。櫻井氏はそこまで断言していないが、彼の記述にはそうしたニュアンスが含まれている。しかし上記のトーク・マニュアルで語られているのは、接客のマナーや心得として一般社会で教えられている内容とほぼ同じであり、違法性や反社会性を示すような内容はまったく含まれていない。もしこうしたマニュアルが存在し、それにしたがってゲストのケアーがなされていたのが事実であったとしても、それ自体には何の問題もないと言えるであろう。

 櫻井氏は「総序」に始まって「摂理的同時性」に終わる倉原克直講師のビデオのタイトルを一通り紹介した後で、次のように述べている:「この種のビデオ受講で感動する人はほとんどいない。どれも初耳の話である。神がこの世と人間を作り、人間がサタンの仕業で堕落し、その後神の元へ復帰する歴史を歩んでいるのだという話を聞かされても、ふーんというしかない。しかし、『全てわからなくともゆっくり学んでいけばよい。いずれわかるので最後まで見ましょう』と言って、後へ後へと評価を引き延ばす。要するに、何が言いたいんだということは取っておくのである。」(p.229)

 これはかなり偏見に満ちた物言いであり、「青春を返せ」裁判における原告側の主張をそのままなぞっているのに過ぎない。感動しないものを、評価を後へ後へと引き延ばされて誘導されながら聞き続けるなどということは苦痛である。そのようなものに引きずられて、見なくもないビデオを見続ける人がそれほど多数いるというのは不自然であり、信じがたいことである。これはビデオを見て「喜んだ」とか「感動した」と言ってしまえば、自分の意思でビデオセンターに通っていたことになり、損害賠償を請求するための違法性を主張しづらくなってしまうために、あえて本意ではなかったかのように主張する「裁判上の戦略」なのである。人が全く興味のないビデオを見続けるということは現実的にありえず、本当に興味がなければ来なくなるのであり、見に来るということは多少なりとも興味があるということなのである。

 私は1987年に東京工業大学を卒業したが、その後は原理研究会に残って後輩の指導に当たっていた。このとき、原理研究会の運営するビデオセンターに通ってくる学生に対する講義、あるいは原理研究会主催の2日間の修練会の講師、7日間、21日間の修練会の進行係などを担当していた。また、1990年の1月から翌年6月まで、東京の武蔵野市と三鷹市を中心とする、当時「東京第7地区」と呼ばれていた信徒の組織において、教育部の講師、教育部長、ビデオセンターの所長兼講師などを担当した経験がある。したがって私は当時行われていた壮年壮婦の伝道・教育に関して全般的な知識を持っており、かつこれを指導する立場にあったので、自分自身の経験に基づいてビデオセンターの現実について語ってみたい。

 櫻井氏は、ビデオセンターにおいては統一原理の内容を講義したビデオが視聴されるだけでなく、「クリスマスキャロル」やNHKスペシャルの「人体の不思議」などのビデオが見せられることもあるという。確かにそうしたことはあったであろう。私自身が運営していたビデオセンターにおいても、統一原理に対するゲストの理解を深めることを目的として、こうした補助教材を用いることがあった。特に日本人にはなじみの薄いキリスト教的な文化背景を理解してもらうために、テレビのロードショー番組から撮った映画なども受講者に見せることがあった。代表的な作品としては、ブラザーサン・シスタームーン、塩狩峠、十戒、ベンハー、偉大な生涯の物語、オーゴッド1~3などを挙げることができる。しかし、必ずしもすべての人がこうした映画を見るわけではなく、どちらかといえば抽象的な講義が理解できず、神様と言われても実感が沸かない人のために、補助教材としてこうした映画を見せていたというのが実状であった。したがって、講義のビデオそのものを喜んで見ていた人は、あまり映画を見ることはなかった。

 櫻井氏は、統一原理のビデオを受講して「感動する人はほとんどいない」と言うが、これは言い過ぎである。実際には、すべての人が感動するわけではないが、一定割合の人が感動するのである。そして感動する人には「宗教性があること」と、「向上心があること」という共通した特徴があった。神の存在や人生の目的、歴史の意味といった内容に関心のある人は一定の割合で存在し、こうした人々は最初からビデオの内容に関心を示す。万人が櫻井氏の描写するような「ふーん」という反応をするわけではないのである。

 私が運営していたビデオセンターに来場する人は、主に二通りの経路を通して紹介されてきた。一つは、東京第7地区内に印鑑や念珠など販売する店舗があり、そこの販売員として活動している信者らが、それらの商品を販売した顧客のアフターケアを兼ねた教育のために、ビデオセンターにつなげるという経路である。しかし、印鑑や念珠などを購入した後になぜビデオを学ばなければならないのか、その必然性を必ずしも顧客が感じるわけではなく、全員がコース決定するわけではない。

 顧客は印鑑や念珠を購入した際に、自分の悩みや家庭の事情について詳しく話しているケースが多く、手相や姓名判断などの占いの内容の他に、夫や姑、あるいは子供に対する接し方など、人としての生き方について占い師や紹介者からアドバイスを受けていた。そのような会話を通して、自己の内面を磨く必要があるという意識が高まっている人、そして紹介者との間に信頼関係のある人は、すんなりとコース決定した。また、先祖や霊界に関心のある人、自分を高めたいと思っている人、宗教性のある人は、学ぶ内容そのものに関心を持って先へ進んで行くことになる。

 もう一つの経路は、東京第7地区に所属する壮年壮婦の信者らが、自分の夫や親族・友人を連れて来たり、街頭あるいは訪問伝道を行って出会った人を連れてくるというケースである。この場合にも、人間関係があるが故に義理で来ただけであって、もともと宗教的な内容に関心のない人はコース決定しないか、してもじきに来なくなってしまう傾向にあった。このように、ゲストがビデオの学習を継続するかどうかは、基本的にその人に宗教性があり、ビデオの内容そのものに関心があるかないかによって決定されるのである。

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