書評「ムーニーの成り立ち」09


第七章「環境支配、欺瞞、『愛の爆撃』」

 このシリーズはアイリーン・バーカー著『ムーニーの成り立ち』のポイントを要約し、さらに私の所感や補足説明も加えた「書評」です。今回は第七章の「環境支配、欺瞞、『愛の爆撃』」を要約して解説します。

 人がムーニーになる理由として、「原理そのものに感動した」のであれば、それは信教の自由に属することであるため、他人がとやかく言うことはできません。しかし、「peer pressure」と呼ばれる仲間や同僚からの圧力に屈服したとか、巧みな嘘によって騙されたとか、過度な愛情によって絡み取られるようにして巻き込まれたとかいうことであれば、これはその人の本意に反して、策略によって入会させられたと言えなくもありません。統一教会への入会が本人の自由な決断によるものであると認めたくない人々は、入会してしまった理由はこのようなものに違いないと論じてきました。本章では、そうした主張が正しいかどうかを検証していきます。

 統一教会への回心が「洗脳」や「マインド・コントロール」という非難を浴びる理由の一つに、外部の世界との接触や情報が制限された環境の中で、極めて短期間のうちに入会しているという点が指摘されます。つまり、大事な決断をさせるのに十分な時間と情報を与えていないのではないかということです。実際には、入会に至るまでの時間の長さは地域によって大きく異なります。「オークランド・ファミリー」と呼ばれるカリフォルニアの運動では、大部分のメンバーが運動に出会って、2~3週間以内に入会しており、しかもその間は修練会にどっぷりと浸かっていたというのですから、はた目には「洗脳」と映るかもしれません。時代によって異なると思いますが、日本ではこれほど短期間に伝道されるケースはまずないでしょう。1983年に復帰された私の場合、霊の親に出会ったのが5月で、しばらく週一回のペースでビデオを聴講し、7月に7日修、8月に新人研、9月には入教というCARPの新入生伝道を絵に描いたような「最短コース」でしたが、それでも4カ月はかかっています。

 もう一つ非難されているのが、教会に入ったことを家族や友人に言わない方が良いと「口止め」をされるという点ですが、バーカー博士の調査によれば、それでも親や友人と相談した人は実際に相当数いたことから、抗し難いほどの圧力ではなかったことが分かります。こうしたことが回心者の主体的判断能力を奪ったかどうかは、地道なアンケート調査によって事実を正確に把握しなければなりませんが、バーカー博士はそれに挑戦しています。

 「天的詐欺」(Heavenly deception)という言葉は、統一教会を批判する英語の文献にしばしば登場する言葉ですが、日本ではこのままつかわれることはありません。もちろん、これは統一教会の公式の神学にはない言葉ですが、ヤコブがエサウから長子権を奪ったときに欺きを用いたという聖書の記事に基づき、天のみ旨を進めるためには「目的が手段を正当化する」という考え方のことを指すのであれば、それが統一教会信徒の中に全くないとは言えないでしょう。日本では習慣的に「ヤコブの知恵」と呼ばれてきた解釈がこれに当たります。これが伝道の場面で用いられると、出合った最初の段階から原理を一通り聞いてしまうまで、伝道対象者に対して、「自分は統一教会員であり、いまあなたが学んでいるのは統一教会の教義である」と正直に告げない「未証し伝道」と呼ばれるものになります。これは一種の「欺き」と言えるわけですが、バーカー博士はその倫理的な評価はさておいて、「騙されること」が人がムーニーになるための前提条件としてどの程度機能しているのかを分析しています。

 まず、①騙されたからといって全ての人がムーニーになるわけではなく、後から自分の関わっていたのが統一教会だったという事実を知って去っていくものが多数存在する、②騙されずに最初から統一教会だと知っていても入会するものがいる――という二つの事実から、「騙されること」は人がムーニーになるための必要条件でも十分条件でもないことが分かります。次に、出合ったときに統一教会であると知っていた人の方が、知らなかった人よりも最終的に入会する割合が高いことから、「未証し伝道」は結果的に入教しそうもない人に多くの時間と労力を投入する可能性が高いことを示唆しています。にもかかわらず、統一教会であることを知らなかったがゆえに修練会に参加し、その間にメンバーと人間的な情関係を深めた結果として入教する者がいる可能性は否定できないとしています。

 さて皆さんは、「ストックホルム症候群」(Stockholm syndrome)という言葉をご存知でしょうか? これは精神医学用語の一つで、誘拐事件や監禁事件などの犯罪被害者が、犯人と長時間過ごすことで、犯人に対して過度の同情や好意等を抱くことを指すとされています。これは、1973年8月に発生したストックホルムで起きた銀行強盗人質立てこもり事件が契機となってできた言葉で、人質が犯人に協力して警察に敵対する行動を取っていたことから、犯人と人質が閉鎖空間で長時間非日常的体験を共有したことにより高いレベルで共感し、人質が犯人に同情や信頼や愛情を感じるようになると分析されました。統一教会に対する反対者は、回心者が統一教会信者に対して好意を示すのは、こうした心理が働いているからではないかと主張しました。しかしこれは、統一教会の修練会では物理的な拘禁や虐待が行われることはないため、合理的な主張としては成り立ちません。

 次にバーカー博士は、統一教会の伝道方法に対する非難として西洋でしばしば用いられる表現である「愛の爆撃」(Love Bombing)を評価しています。「愛の爆撃」という言葉は、過度な愛情によって伝道対象者を心理的に圧倒し、合理的な判断ができなくなるようにして回心させるという意味で用いられます。しかしバーカー博士は、統一教会員の示す過度な好意に対して反発したり疑念を抱いたりして入教を拒否する者がいる一方で、「メンバーの愛情ではなく、教えの真理性に感銘を受けて入教した」と主張する回心者も多数いるため、「愛の爆撃」と呼ばれているものは、抗しがたいほどの圧力や効果があるとは認められないと結論しています。

 統一教会に入信する人々の動機には、講義を聞いて純粋にその神学に感動したという「真理性」に重きを置く人と、講義の内容はよく分からなかったけれども、霊の親や修練会のスタッフから愛情あふれる世話を受けたとか、ムーニーたちが皆とても幸せそうに見えたとか、彼らは愛情深く思いやりのある共同体を創る方法を知っているように見えた、というような「情緒面」に重きを置く人に大別することができます。後者の理由で統一教会に入教した人が、不当な強制によって入教させられたとか、「洗脳」や「マインドコントロール」をされたと評価すべきであるかについては、バーカー博士は否定的な見解を示しています。

修練会の様子1

修練会の様子1

修練会の様子2

修練会の様子2

 しかし、こうした情緒的な理由で入教した人々の中には、教会内での人間関係がうまくいかなくなると離れる傾向があることも指摘しています。「非常に友好的で愛があるように見える人々のグループに加入することを『選ぶ』ことは完全に合理的なことであり、また、もし後になって会員たちが他の人々に比べてそれほど愛があるとも言えず、愛すべき人々でもないことを発見したならば、離れることを決心することも等しく合理的である」というバーカー博士の指摘は、実際にありそうな話であるだけに耳の痛い指摘です。「愛の爆撃」が、人を伝道することを目的として初期に過剰な愛情を注ぐことを意味するのであれば、それは小手先のテクニックに過ぎず、永続的な効果はないと考えられます。

 バーカー博士は、「愛の爆撃」という非難に対して以下のような結論を下しています。修練会で形成された友情が、回心をもたらす上で重要な役割を果たすことはあり得ますが、それをもって人を欺いたということはできません。多くの宗教団体と同じように、統一教会の内部には唯一の支配的な世界観しかなく、比較的閉ざされた共同体を形成していますが、そもそも多くの選択肢と不確実性に満ちた広い世界で孤独に生きるよりは、安定した狭い世界で隣人との絆を感じながら生きることを好むような性格を持った人にとっては、統一教会は居心地の良い場所であり、自分の特性にしたがって合理的な選択をしているとさえ言えるのです。そうした特性を持たない人であったとしても、人間関係に魅力を感じるか、友情を動機として共同体の一員になるということはあり得ます。しかし、そのことの故に自分自身の自由や選択肢が制限されるという代償を払わなければなりません。その代償を払う価値があると思えるほど統一教会内での生活や人間関係に魅力を感じ続ければ教会に残るでしょうし、魅力を感じなくなってしまえば、自由を求めてそこから離脱するということになります。統一教会員は感受性や判断力を失ったロボットではないので、このような合理的な判断を個々人がその時々にしているのです。バーカー博士は一人一人のムーニーと接し、インタビューし、そして運動に残る者と去っていく者を長期間にわたって観察した結果として、このような結論を下しているのです。

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