実況:キリスト教講座51


質疑応答(2)

質問:ダーウィンの進化論について、どれがどうして間違っていて、神の創造だと言えるのかということを、よく伝道対象者から聞かれるのですが、統一原理の立場からはダーウィンの進化論をどのようにとらえたらよいのでしょうか?

回答:われわれの運動に関係したもので、ダーウィンの進化論を批判したものとしては、いくつか文献が出ていますね。これは統一原理というよりは、統一思想の研究の一環としていくつかの書物を出しています。統一思想研究院・李相軒/編著の『進化論から新創造論へ』(光言社、1999年)、日本統一思想研究院/編著の『蘇る愛と生命』(光言社、2014年)などが書物としてはありますし、統一思想研究院・神明竜二著の「だれがヒトをつくったか―進化論を越えて」(光言社、1992年)というマンガも発行されています。

進化論に関連する著作①

 分かりやすいDVDとしては『進化論の終着点』(23分、2013年)があります。より専門的なものとしては、ジョナサン・ウエルズ著『進化のイコン』(コスモトゥーワン、2007年)などがあります。

進化論に関連する著作②

 これらの内容について詳しく説明する時間はありませんが、結論だけ言うとどうなるかというと、ダーウィンの進化論は「適者生存」とか「自然淘汰」ということを説いていて、その状況に最も適した者が生存競争を勝ち抜いて生き残ることによって進化していくんだという考え方です。ところが、この「適者生存」というのは極めてイデオロギー的な主張を自然界に読み込んで解釈したものであって、自然界の現象を客観的・科学的に分析してみれば、必ずしも適者生存になっていないということなんです。それでは説明できないような形で、実際には生物の進化が起こっている例があまりにもあって、ダーウィンの理論は当てはまらないということなんです。これらによって、ダーウィンの考え方は間違っているということは十分説明できるんですが、それによって神が創造したという結論に直結するかというと、そこまではすぐに行きません。しかし、現代人の多くはダーウィンの進化論は正しいものであって、科学的に証明されたものだと思い込んでいるふしがあるんですね。そこで、ダーウィンの進化論は科学的に証明されたものではなくて、多くの欠陥を持つ説得力のない理論であるというところまでは説明できると思います。そこから出発して、創造論と進化論のどちらが正しいか考えてみましょう、というような話の仕方はできると思います。伝道対象者との話のレベルであれば、それほど学問的に深く入っていかなくても、これらの教材を読んで理解した上で話をしてあげれば大丈夫でしょう。

質問:無神論という考え方はどのようにして生まれたのでしょうか? 無神論者については、キリスト教の神学はどのように扱っているのでしょうか?

回答:無神論との対決というのは、神学のテーマの一つではありますね。神学というのは神様の存在を前提とした学問ですから、無神論そのものを中心的に研究しているわけではありません。しかし、キリスト教にとって無神論との対決というのは重要なテーマで、それとの戦いがあることは事実です。なぜ無神論という考え方が生まれたのかについてはいろいろな説がありますが、共産主義が出現した背景を例にとってみれば一番分かりやすいだろうと思います。

 まず、神を信じる社会が前提としてあるんです。つまり、古来から人間の歴史において宗教の存在しない時代というのはほとんどないわけでありまして、どの社会におきましても宗教が支配的な時代が先行してあるわけです。ところがその神を信じ、神を説く人たちの生活の中に愛がない、そして正義がない、搾取がある、不平等があるということになると、その神を信じていると主張している宗教者たちの姿を見て、神はいないと思う人がいるわけですね。マルクスなんかも同じで、神の存在を主張する人々すなわちアベル圏が、神様を証しするにふさわしい生活をしてこなかったという現実があり、その姿に対する讒訴から無神論というものが生まれてきたわけです。人間の本性としては神がいると考えた方がいいわけでありますが、しかし神がいると主張している人々があまりにも醜いので、自分はそれを受け入れられないというところから無神論の思想が生まれていく、というのが一般的な心理傾向ですね。

 だから無神論を主張する人たちに対して、理論でもって対抗しようとしたとしても、まずその根底に宗教に対する讒訴の情念というものがあるので、そこが難しいのです。共産主義なんかもそうです。キリスト教の作ってきた社会に対する批判、アンチテーゼとして共産主義が出てきたわけです。キリストの愛を説きながら教会が搾取をしている、クリスチャンたちが豊かな生活をしながら奴隷を虐げているのをみて、どこに神の愛が表現されているんだという主張から無神論が生まれてきたわけです。そういう背景を知らないと、なぜ無神論なのかということの本質が見えてこないわけです。理論というよりはむしろ、現状に対する怨念や不満から無神論になることが多いということを知っておく必要があるでしょう。

質問:現代の日本社会では、どうしてこんなに人々は神様とか宗教に対する関心がないのでしょうか?

回答:現代日本において、神様の話題をみんなが避けたがる、あるいは宗教をやっているというと危険だと思われるということで、宗教に対する不信感が非常に強いということは、一般的傾向としては確かに言えると思います。それがなぜなのかということについては、神学というよりは宗教学的な研究のテーマになっていて、いわゆる宗教に対する信頼の失墜が著しい社会になったのはなぜかという問いになります。これはまず、戦後の日本というものが全般的に世俗化されていったために、宗教に対する信頼が失われていったということが背景にあると思います。特に組織的な宗教に対する不信感というものがあって、マスコミが宗教について扱うときには、巨大教団の腐敗を批判するというようなスタイルが多いですね。日本人の宗教性について、いま言えることは何かというと、組織的な宗教に対する警戒心がものすごく強いということです。その最たるものがオウム真理教事件で、オウム真理教のように宗教というのはカルトになりやすくて、そんな組織に巻き込まれたら大変だという警戒心があることは事実ですね。

 しかし一方で、宗教的関心そのものが日本人の中にないかというと、実はそうではなくて、スピリチュアルなものに対する関心というのは、年齢が高い人から若い人に至るまで、ものすごく持っているんですね。ですから、霊能者による人生相談みたいな番組、たとえば「オーラの泉」みたいな番組が人気を集めたり、占いも流行るし、マンガやアニメの中にもスピリチュアルなテーマというのはたくさん出てくるわけです。ですから、潜在的にまったく宗教性がないわけではなくて、宗教的なものを求める感性とか、宗教的な心を根底にはもっているわけです。

 ただ、組織的な宗教に対する不信感があまりにも強くて、組織的な宗教に巻き込まれると個人が搾取されるという考えが頭の中に相当入っているもんですから、「そういう話はやめてください。ちょっと危ない」という感性がとても強いんですね。これが現代の日本人の特徴であるわけです。だから宗教性そのものがないんじゃなくて、宗教的なものは求めています。ただ、組織的な宗教に対する警戒心が強いので、個人的な信頼関係を結んで宗教的関心を引き出したうえで、その人の本心を引き出したうえで、最終的に組織宗教に対する不信感を解きほぐしてあげるという作業をしないと、伝道されないということになります。いまはそういうご時世ですね。

 ですから、最初から宗教団体に入りませんかという話をするのではなくて、一般的な宗教性を啓発するような会話と教育を通して、導いていかなければなりません。神様は存在すると思うか、霊界はあると思うか、というような話であれば関心を持ち始めることはできると思います。日本人の場合には一神教的な神様よりもむしろ霊的なものに対する関心が高いんではないかと思います。

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