実況:キリスト教講座50


質疑応答(1)

質問:福音主義神学は、人間の努力を否定するということなんですが、聖書の中にも「求めよ、そうすれば与えられるであろう」という有名な聖句があって、明らかに人間の努力は必要であると感じられるんですけれども、そのような聖句に対して福音主義や啓示神学においてはどのように解釈しているんでしょうか?

回答:「求めよ、さらば与えられん」(マタイ7:7)という特定の聖書の個所に対して、福音主義の聖書註解がどのように説明しているかということに関しては、いま手元に註解書がありませんので確たることは言えませんが、基本的な考え方としては、「与えられるであろう」と言っているわけですから、人間の力で何かを勝ち取るということではなくして、「神様からの恵みに対して心を開きなさい。神様の恵みを受けれいる心を持ちなさい。そうすれば人間の努力によってではなくて、神様が愛を与えてくださるんだよ」と解釈するわけです。そういう意味で、求めることは人間の努力ではなくて、神様の方を向けば、神様が100%無条件で与えてくださるんだという意味で、おそらくその聖句を解釈すると思います。

 私たち流に解釈すれば、「求める」ことが人間の責任分担であるという理論になるかも知れませんが、神学においては聖句を自分の都合の良いように解釈する傾向があり、どんな聖句を持ち出して反論したとしても、それは向こう側に都合の良いように解釈されるようになります。

 たとえば「回心」という現象一つをとっても、カルビン主義における回心においては、人間の側には一切原因がないんですね。すなわち神の一方的な恩寵によって回心をするんであって、神を求めるように人間がなることすら、人間の努力によってではなくて、神によってそうさせられているんだととらえるわけです。ですから、このような一方的な恩寵論の神学においては、人間の責任分担というものは一切存在しないわけです。人間が自分でやっているかのように思い込んでいたとしても、実はそれは神の一方的な恵みによってそうなっているんだと強弁する傾向にありますから、何を言ったとしても、それは神の一方的な恩寵だと言い切るというのが福音主義の特徴だということになります。

質問:それでは、神学的に言いあっても難しいということですか?

回答:そういう意味では、神学論争というものは水掛け論になる傾向がかなりあって、ゴリゴリに固まった神学者を相手に論争をしても、あまり実りある結論にならないことが多いです。つまり、最初に結論があり、信念があって、それに合わせて聖書を解釈して主張をするので、客観的な議論をする場が成り立たないことが多いんです。これが実は神学という学問が持っている致命的な欠陥の一つです。自然科学などの場合にはまず仮説を立てて、客観的な判断基準が存在して、その真偽を判断することが可能ですね。ですから実験して結果が出なかったら負けを認めるという、共通の理解の基盤があるときには、それは科学と呼ぶに値します。論争が成り立って、論争によって学問が発展していくわけです。

 しかし、神学というものは信念が先に立ってしまうので、論争をしても物別れに終わる場合が多いわけです。神学が現代社会において説得力を失ってきている理由の一つは、科学的な論争の基盤が存在しないからなんです。プロテスタントはプロテスタントで閉ざされた神学があり、カトリックはカトリックで閉ざされた神学があり、さらにプロテスタントの各教派の中で異なった神学があるということになると、異なった神学同士の対話の基盤は存在しないということになってしまいます。ですから知的な議論だけで神学論争を解決しようとしても、双方に納得のいく解決にならないことの方が多いわけです。ですから「神学論争」というと無益な論争の代名詞のようになってしまっています。

 ですから宗教が和合しようというときに、神学論争をして問題を解決するということは、現実的にはあまり存在しません。むしろ、神学の違いは置いておいて、お互いに社会に役に立つために一緒にできることは何でしょうね、ということで一緒に奉仕活動をしたり、宗教者がいまの若者たちに与えられるものが何であるかを一緒に考えましょう、と言いながら一緒に手を取って働いた方が、宗教同士が仲良くなれるかもしれないというのが、いまの現実であります。

質問:教授渉外をするときにも、神学の話をしてもうまく行かないということでしょうか?

回答:それは相手によるでしょうね。たとえばある教授が、確固たる信念を持っていなくて、特定の信仰を持っていない場合には、伝道することも可能だと思います。統一原理をそのまま伝えて、感動したら食口になってくれる教授もいるかもしれません。ただ、その人が既に特定の信仰を持っていて、クリスチャンであるとか、別の宗教の信者であったりする場合には、神学論争をして論破して教授を伝道するということはあまり現実的ではありません。その場合には、私は統一教会の信仰を持っていて、先生は○○教の信仰を持っているということで、お互いの信仰を尊重し合いながら、社会のために一緒に何ができるかを考えた方がより建設的だということです。そのときに向こうの方から、「統一教会っていろいろ言われているけど、どんなこと信じてるの?」と聞かれたら、「私たちはこういうことを信じているんです」という説明をすることは良いだろうと思います。

質問:伝道しているときに、対象者がキリスト教だとか仏教だとか、自分なりの考えをしっかり持っていて原理を聞く場合に、自分の考えと比較してみたりとか、原理を客観的にみていて、あまり自分のこととしてとらえてくれないことが多いんです。そういうときには「とりあえず原理を聞いてみて」と言って聞いてもらうんですけど、こう人に対してはどうしたらよいと思いますか?

回答:伝道するときに私たちが理解しなければならないことは、確かに私は誠を尽くして伝道するんですけど、最終的には神様が伝道するんですね。ということは、私がテクニックを使って伝道するわけではなくて、その人が神様と出会わない限りは、どんなに一生懸命やっても伝道されないときがあるわけです。ですから、自分の宗教に確信を持っていたりとか、仏教的な考えに染まっていたりとか、人間にはいろんな状況があります。それを人間的に見たら、この人に原理が入るのは不可能じゃないかなと思えるような人もいっぱいいるんですけれども、そういう人がある日突然変わって、教会の信仰を持ったりすることもありますよね。それは何かというと、私が何か理論的に説得してそうなったというよりも、その人自身が神様と出会って、何か否定できない実感というものをもって価値観を変えていく場合の方が多いですよね。

 ですから伝道に勝利した証しというのは、自分が何かみ言葉をうまく語ったからとか、うまく和動して説得したからということ以上に、その人が神様の準備した人であれば、誠を尽くしていく中でいつか神様と出会う一点があるわけですよ。それまで変わらずに愛し続け、喧嘩して論争するのではなくて、いろいろわがままを言う相手に対しても、包んで、「そうだね」と言いながらみ言を聞いてもらって愛し続けて、神様が働くのを待つしかないんじゃないかと思います。そういう姿勢で行かないと、ともすれば人間の力で伝道するという考え方になってしまいます。ですから、理論で屈服させて人を伝道できるものではないということです。

質問:さっき「内在神」というお話を聞いていて思い出したのが、最近ある姉妹から「忙しいので祈祷会は出られません。自分だけで祈るからそれでいいでしょう。出なくちゃいけないんですか。」と言われたんです。これは神が自分と共にいるから祈祷会はいらないんだっていう感じなのかなと思って、先生はそのときどのように答えますか?(笑)

回答:いろんな答え方があると思うんですが、結局私たちは、いまの姿としては完全に神様の啓示を受け取れるような立場ではなくて、堕落しているわけです。ということは、堕落人間である以上は、自分で100%神様に通じることはできなくて、何らかの仲保者がいないと神様にはつながれない存在だということです。その仲保者の代表的な存在がメシヤであり、そのメシヤと直接つながることができないから、私たちとの間にアベルがいて、教会があり、組織があり、祈祷会や礼拝という行事があるわけです。そういうことからすると、自分が祈れば神に通じるというのは、ある一面あっていますが、それだけでいいと考えるのは極めて傲慢な考え方だということです。自分は神様のみ旨の全部を知ることができないので、ときには自分を否定してアベルにお伺いを立てるとか、アベルの指導を受けるとかいうことをしないと神様が分からない堕落した立場なのです。だからあまり自分を中心として「内在神」という側面を強調すると、自己中心的な信仰に陥って、神様の願いから離れて行ってしまう危険性があるから、できるだけ自分を否定して全体に合わせるように努力した方が良いですよ、というように指導するしかないと思います。

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