実況:キリスト教講座47


自然神学と啓示神学(10)

 次に、特殊啓示と啓示神学について説明します。これも一般的な組織神学の教科書に出てくる説明です。神が特定の時に、特定の場所で、特定の人に対して救いの業を成すために与えられた啓示を「特殊啓示」と言います。啓示を特殊啓示のみに限定するのが啓示神学の立場です。特殊啓示が必要とされるのは、人間が堕落して神との本来の関係を失ったので、人間は神様が特別に啓示を下さらないかぎりは神様のことが分かりません。それを伝えるのが「聖書」であるということです。だからそれは特別な神の啓示なんだというわけです。

 この特殊啓示は、人間の贖罪に関する特別な神の啓示であり、その内容は個人的・直接的にある人物に伝えられます。それがモーセであったり預言者であったりするわけです。このとき、神は人知を超えた超越的存在として示され、絶対的な権威を持った存在として人間に命令します。すなわち、特殊啓示というのは人格的な存在である神が、上から一方的に権威をもって人間に与えるという形を取るわけです。このような特殊啓示は、具体的には「聖書」という書物の中に、①旧約につづられた歴史的出来事を通して、②預言者を通じた神の言葉として、③神の受肉したイエス・キリストを通して記されているとされています。これが特殊啓示の内容になります。

 それでは、我々の信仰にとって「特殊啓示」という概念にはどのような意義があるのでしょうか? それは啓示の優先順位と秩序ということに関係しています。基本的に一般啓示という概念は、啓示の意味内容を拡大していく傾向にあります。いついかなる時でも、どんな人でも神の啓示を受けることができるというように、啓示の意味を広げていくと、あれも啓示、これも啓示ということになり、あたかも啓示のバーゲンセールのようになってしまうのです。私たちのような凡人も一生懸命祈ったりすれば神の啓示を受けるかもしれませんが、それがモーセやイエス様の受けた啓示や、お父様の受けた啓示と果たして同等と言えるのでしょうか? さらには、個々人の受けた啓示が互いに矛盾する内容であった場合には、誰を信じたらよいのかという問題が出てくるわけです。その意味で、たとえ私たちも啓示を受けるということを認めたとしても、それは特別な使命をもった人に与えられる特別な啓示の前には、否定されなければならないときもあるということです。そのような啓示の優先順位や秩序ということを考えたとき、私たちはこの「特殊啓示」という概念の重要性を認識しなければならないわけです。

 次に、神の「超越」と「内在」ということについて説明します。これもキリスト教神学を理解する上において非常に重要な概念ですね。この「超越」と「内在」という概念は基本的に、神と被造世界がどのような関係にあるかについての両極的なとらえ方のことです。神の「内在性」を強調する思想は、基本的に神は被造世界と非常に近い関係にあり、被造世界の至るところに神は偏在しているととらえます。これが「内在」という考え方です。それに対して、神の「超越性」を強調する思想は、基本的に神は被造世界とは隔絶したところにいる非常に遠い存在であるととらえます。これが「超越」という考え方です。

実況:キリスト教講座挿入PPT47-1

 これを皆さんの右脳で理解できるように図にしてみました。超越神のイメージというのはこんな感じ(左側)ですね。人間がここにいるとすると、罪にまみれて真っ黒けです。自分から神様に至ろうとしても、神様というのは非常に遠いところにいて、人間が到底届くことのない遥か彼方にいらっしゃるわけです。そして雲か霞か何かに隠れて見えないし、声も聞こえない、触ることもできません。人間の方から、すなわち下から上に登って行こうとしてもダメです。だから、もし人間が神様について何か知ることができるとすれば、神様と人間との間にある距離を神様の方から突き破って、神様が一方的に恵みとして啓示を下さったときだけ、それは可能だということなんですね。ですから、さきほど福音主義の大前提で「下から上へはダメですよ。上から下でないとダメですよ」と言っていたその背景には、実は「超越神」というイメージがあるわけです。つまり、神様は人間から超越した極めて遠くにいる存在で、とても手の届かないところにいるので、そういう距離感があるからこそ、人間から神様に至ろうとしてもダメで、神から人間に恵みを下さらなければならない、ということを強調するようになるわけです。

 それに対して「内在神」というイメージは、神様と人間との関係はこんなに離れていません。とても近いわけです。手を伸ばせばすぐそこにいる。下手をすると「内在神」ですから、どこか遠くにいるんではなくて、私の中にいる、神様は私の中に住んでいらっしゃる、神様は常に私と共にいらっしゃるというような、神様に対するとても近い感覚、これを「内在神」というわけです。下手をすると「神は友達」ということになります。

 こういう話をすると、原理では「人間は個性完成すれば神と一体となる」という神学があるので、「超越神」の方が旧約時代の神で、「内在神」の方がより原理に近い神かなとか、「超越神」というのは神との距離が遠いので基準の低い状態で、「内在神」というのは神と一体化した完成間近の状態なのかなという考えて、単純に「内在神」の方が良いのだと統一教会の人たちは発想しがちなんでありますが、必ずしもそういうことではありません。内在性というのは良いようなんでありますが、いろいろ問題も含んでおります。すなわち、神の超越性と内在性というのは、どっちかが良いとか優れているとかいうことではなくて、実は両方のバランスが必要だということなのです。どちらにもそれぞれ長所と短所があります。なぜそうなのかということを、これから詳しく説明します。

 内在性を強調する思想の特徴は、基本的に被造物の中には神の善なる性質が満ち満ちているととらえる楽観主義にあり、生に対する肯定的な思想であると言えます。自然や人間などの被造物の中に神が「内在」していれば、それを通して神を知ることができるので、この「内在神」が自然神学の根拠となります。超越していれば、自然の中に神はいないわけですから、自然を観察しても神は分からないという結論になってしまいます。

 この神様は人間と非常に近い関係にあるので、私たちが生きているこの歴史の一瞬間にもどんどん働いてくるということで、内在神の特徴として「歴史の中に働く神」という考え方があるんです。神様は遠いところに超越しているんじゃなくて、常にこの被造世界に関わりを持って来られるわけですから、いま私たちが生きているこの歴史の舞台にも神は働いているという考え方になります。そうすると、どうしても人間は「神は我と共にいる」と考えたいですね。ですから神様が特定の政治運動の中にいるとか、特定の社会運動の中にいると考えて、容易にそれらと結び付きやすいという特徴もあるわけです。

 神の内在性は、まさに19世紀ヨーロッパの自由主義神学の特徴でした。すなわち、「神は我と共にいる」という考え方が世俗化されていったわけです。宗教を「世俗社会」を超越したものととらえないわけですから、世俗的な哲学や思想、あるいは特定の政権と結びついて、信仰が宗教的ナショナリズムに堕落していく危険性を「神の内在」という思想は常にはらんでいるわけです。すなわち、「神は近い」というのは良いんですが、神は我と共にある、神は我が民族と共にある、神は我が国家と共にある、という考え方になっていくわけです。「神の内在」という思想には、人間を自己中心的信仰に陥れる危険がある、ということも同時に知っておかなければなりません。

 たとえば、私たち統一教会でも昔よく歌っていた歌の中に、“God Bless America”という歌があるんですね。「神はアメリカを祝福し給う」というとっても良い歌なので、アメリカの食口たちはみんな喜んで歌ったんです。ヤンキー大会やワシントン大会のときもみんなでそれを歌いました。これは一面の真理なんです。神はアメリカを民主主義の代表国家として祝福し、アメリカに「天使長国家」という歴史的な使命を与えたわけですから、神がアメリカを祝福したというのは一面の真理なんです。しかし、これが行き過ぎるとどうなるかというと、「アメリカは神の国である。アメリカの拡大は神の正義である。したがって、アメリカの敵は神の敵である。だからやっつけろ!」という発想に、どうしても人間というのはなるんです。この「内在」という思想の中に謙虚さがないと、どんどん傲慢になって、自己中心的な思想になるということなんです。

 第一次世界大戦というものが起こった背景には、この「神の内在」という思想があったんです。それが19世紀のヨーロッパの自由主義神学の特徴であったわけでありますから、イギリスでも、ドイツでも、フランスでも流行っていたわけです。したがって、「歴史の中に働く神」という考え方から、どの国も「我が民族に神が働く」と考えたわけです。ドイツ人は「ドイツに神が働いている」と考え、フランス人は「フランスに神が働いている」と考え、イギリス人は「イギリスに神が働いている」と考え、自国の拡大が神の祝福であると考えたわけです。このように、それぞれの国が自分に神の祝福があると信じ、自分の勢力を拡大することが神の御旨なんだととらえたらどうなるでしょうか? それがぶつかって戦争が起きるでしょう。第一次世界大戦が起きた神学的理由というのは、まさにこの「神の内在」という考え方にあったわけです。

カテゴリー: 実況:キリスト教講座 パーマリンク