実況:キリスト教講座45


自然神学と啓示神学(8)

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 さて、キリスト教には大きく分けて福音派とリベラルがあるんだという前知識を前提として、個々の神学的概念の説明に入っていきたいと思います。初めに、一般啓示と自然神学ということについて説明します。

 この問題について語るには、まず「啓示とは何か?」ということについて説明しなければなりません。いまから語るのは、一般的なキリスト教の組織神学の教科書に出てくる内容です。「啓示とは、神の人間に対する自己開示である。」すなわち、神は無限な存在であり、人間は有限な存在なので、人間の方から神についてすべてを知ることはできません。神が自分はこういう存在であるということを親しく開示してくださるときに、初めて人間は神について理解できるということです。ですから啓示の定義は、「神の人間に対する自己開示」となるのです。

 この啓示には、二種類の啓示があるんだということを、一般的なキリスト教の組織神学では認めております。その二種類のうちの一つが「一般啓示」と呼ばれるもので、これは「いついかなる時と場所においても神は人間と親しく交わり、ご自身を開示されるという意味での啓示」ということになります。伝統的な一般啓示の場としては、まず自然があります。自然の中に神が表れるということですね。ですから自然神学もありだということになります。それから歴史があります。歴史的出来事の中に神が表れることもあるということです。それから良心や道徳的衝動のような、人間の性質に神が働くことがあります。このようにとらえることにより、聖書以外にも、もっと広い領域の中に神様はご自身を表すことができるんだという意味で、「一般啓示」という概念が存在しているわけです。

 それに対して「特殊啓示」とは何であるかというと、「神が特別な摂理的な時に、特別な人物に与え、『聖書』という特別な書物に記された内容という意味での啓示」のことを言います。

 バランスの取れた一般的な組織神学の教科書には、啓示とは神の人間に対する自己開示であり、啓示には「一般啓示」と「特殊啓示」の二種類があるということが書いてあるんですね。ところが極端な福音主義神学の立場によると、「一般啓示」などというものはあり得ず、「特殊啓示」だけが啓示と呼ぶに値する、本当の啓示なんだと主張するということになります。ここが大きな違いです。

 このようにバランスの取れた神学は、一般啓示の一つのあり方として、自然を通して神が啓示されることがあると認めています。したがって、自然を通して神を知ろうとする「自然神学」が成り立つわけです。その時にローマ人への手紙1章20節というのは、実は自然神学について語るときには必ずといっていいほど引用される聖句なんですね。ですから原理講論のローマ人への手紙1章20節の引用の仕方というのは、別に間違いでもなんでもない、とってもオーソドックスな聖書の引用の仕方ということになるわけです。ただ、福音派からすると、ロマ書の1章20節は自然神学の根拠にはならない、これは間違っている、と聖書の引用の仕方を批判することになります。これは統一原理だけではなく、あらゆる自然神学に対する福音派の攻撃として言われていることです。ですから、福音主義は「一般啓示」も「自然神学」も認めないという立場に立っているということです。

 次に、自然神学とは何かを説明します。これは聖書に依らずとも、ここが重要ですね、たとえ聖書に依らなかったとしても、自然を観察することを通して神について知ることができるという立場の神学のことを、自然神学と申します。自然を観察して分析するのは人間の理性でありますから、理性によって神を知ることができるという立場の神学であって、傾向としては合理主義的神学であり、哲学的神学であるということができます。その代表的な人物が中世の神学者トマス・アクィナスという人で、彼によって自然神学は集大成されたと言われております。トマス・アクィナスという人は、原理講論にも名前が出てきますね。彼の主張は、キリスト教の真理には、啓示によってしか知り得ない部分もあるが、合理的検証によって知りうる部分もあるというもので、その領域が「自然神学」の領域であるとしました。

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 トマス・アクィナスは、こういう二階建て構造の神学を考えたんですね。つまり、自然と超自然という二階建て構造になっていて、この自然神学の領域というのは理性のみによって一生懸命考えれば誰でも分かるところなんだというわけです。例えば、神が実在しているということは、合理的に考えれば分かると言ったんですね。ですから彼が何をやったかというと、神の存在証明を一生懸命やったんです。理性を駆使して5通りの神の存在証明を彼はやったと私は神学校で習いました。ですから、聖書を読まなくても神が実在していることは合理的に考えれば分かると言ったんです。それから、魂が不滅であるということも合理的に考えれば分かるんだということで、それらを自然神学の領域としたわけです。

 ところが、キリスト教の教えの中には、人間がどんなに一生懸命理性を働かせて考えたとしても、とても到達しえないような真理もあると彼は言いました。それは何かというと、まず三位一体です。「3=1」というのは数学的矛盾をはらんでいますから、どんなに合理的に考えても到底理解できないわけです。それから「ロゴスの受肉」という教えがキリスト教にはあります。神様のロゴスが肉をまとって現れたのがイエス・キリストであるということです。これは要するに、神が人となられた方がイエスだという教えですから、これもどんなに合理的に一生懸命考えても理解できないですね。それから「処女懐胎」ですが、処女であるマリアからイエスが生まれたということも、どんなに一生懸命理性で考えても分からないんだということで、これは超自然的な事柄であって、理性の到達できる領域を超えたことなので、啓示によってのみ知り得るキリスト教の真理であるんだと言ったわけです。

 このように、トマス・アクィナスはキリスト教の真理を超自然の部分と自然の部分に分けて、こちら側(下の部分)が自然神学の領域ですよという話をしたんです。ですから中世の神学におきましては、自然神学の方がより下にあって、啓示神学の方がより上にあったわけです。啓示神学の方がより高度な真理なんだということです。こちら(下の部分)は人間が理性で考えれば分かることであるけれども、それを超えた超自然の世界にキリスト教の神秘の部分があるんだというわけで、啓示神学と自然神学を分けて考えていたということです。

 これが中世的神学の考え方です。ところが、この中世的な神学が挑戦を受けるような時代がやって来ます。それが「理性の時代」です。ルネッサンスがあり、啓蒙思想が起こることによって、人間の理性の価値というものがだんだん重きを持つようになってきます。そして人間は理性的な存在だ、何でも合理的に考えられるという社会の風潮になってくると、この神学の二階建て構造に対して、「理性によって知り得るというここ(下の部分)はいいですよ。だけどこれ(上の部分)は何なんですか? 『超自然』とか言いながらこれは要するにナンセンスなんじゃないんですか?」という考え方になり、この二階建ての上の部分を追い出してしまおうという運動が始まるわけです。これがいわゆる「合理主義的なキリスト教」の始まりです。

 これが出現した流れを説明すると、まず宗教改革によってカトリックの伝統的権威が崩壊します。その次に、宗教的権威に挑戦する啓蒙思想というものが出てきます。啓蒙思想の特徴は理性至上主義であって、理性によって認識し得るもののみが「真理」と呼ぶに値するという考え方です。これによってトマス・アクィナスの二階建て構造が否定されて、人間にとって認識可能、支配可能な範囲内にとどまるキリスト教に変革していこうという運動が起こってきます。そうすることによって、先ほどの二階建て構造の上部に当たるキリスト教の超自然的な要素を排除しようとするようになったわけです。これはキリスト教の教えを道徳原則に還元しようという試みであり、イエスは道徳の教師であり、人々の模範であったんだという主張になります。これが自由主義神学や自然神学の立場となって、一時期ヨーロッパを席巻したわけです。

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