書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』10


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第10回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第2章 統一教会の教説」のつづき
 櫻井氏は本章の「二『原理講論』に説かれた教説」において、『原理講論』の中身についての解説を試みている。それは33ページにわたるかなり長いものだ。通常、価値中立的な立場に立つ宗教学者や宗教社会学者は、研究対象である宗教団体の教説に対しては客観的立場を貫き、「このようなことを信じている」という記述的アプローチをとるものである。それを自身がどのように感じようが、ありのままに記述して批判や価値判断を差し控えるのが作法なのである。アイリーン・バーカー博士の『ムーニーの成り立ち』の第三章「統一教会の信条」はまさにそのようなアプローチであった。

 しかし、櫻井氏は統一教会の教説を『原理講論』に基づいて客観的に記述するだけでは気が済まないらしく、各項目で何かしら批判を試みている。批判をすること自体は別に悪いことではないが、問題はそのスタンスに一貫性がないことだ。宗教社会学の立場からの批判なのか、聖書学的な立場からの批判なのか、神学的な批判なのかはっきりせず、そのときどきにご都合主義的にこの三つを使い分けているように見える。特定のキリスト教神学の立場からの統一教会の教説に対する批判であれば、それは「神学的アプローチ」として成り立つものであり、自分の信じる神学的立場に寄って立つという一貫性がある。しかし櫻井氏の批判にはそうした原則がない。あるのは、どうにかして『原理講論』にケチをつけたいという情念だけだ。

 そもそも宗教社会学の立場から特定の神学を批判するということ自体が、カテゴリー・エラーでありナンセンスである。聖書批評学などの学問的立場から、特定宗教の聖書解釈を批判することは「釈義」の問題としては可能である。しかし、現実に存在しているキリスト教信仰の中でこうした学問的批判に耐えうるものはほとんど存在しない。櫻井氏が堕落論の批判でやろうとしていることは、基本的に聖書学的な「釈義」の方法論で『原理講論』の聖書解釈を批判するというやり方だか、これは現実に存在する生きた信仰を扱う上では、象牙の塔の中で行われる学術的な遊戯に過ぎす、何の影響力もない。これは大事なポイントなので、後に「堕落論」の部分を扱う際に詳しく説明する予定である。

 櫻井氏は初めに、創造原理において展開されている、結果としての被造物から原因としての神の性質が分かるとする論理を批判する。彼はこれを「自然科学的な、しかし、ある意味常識的な因果論的推測」と分析した上で、「突然聖書を参照して(例えば「ローマの信徒への手紙」1章20節など)神の性質が被造物より知れるという」などと、あたかもそれが突飛なことであるかのように批判する。しかし、これはキリスト教神学に対する無知に起因するものである。

 自然を観察することを通して神を知ろうとするアプローチは、何も『原理講論』に固有のものではなく、「自然神学」と呼ばれる一つのキリスト教神学のあり方であり、『原理講論』が引用しているロマ書1章20節は、自然神学を展開する際に、その聖書的根拠として必ずと言っていいほど引用される典型的な聖句なのである。これは神学的概念なので少し詳しく解説しよう。

 自然神学とは、聖書に依らずとも自然を通して神について知ることができるという立場の神学を指す。これは理性によって神を知ることができるという立場であり、合理主義的神学、または哲学的神学という特徴を持っている。自然神学は、中世の神学者トマス・アクィナスによって集大成されたが、彼の神学においては自然神学はあくまで「啓示神学」の下に位置づけられていた。すなわち、キリスト教の真理には、啓示によってしか知り得ない部分もあるが、合理的検証によって知りうる部分もある。その領域が「自然神学」の領域であるというのだ。これに対して、聖書という神が人間に特別に与えた啓示にその根拠をおく神学を「啓示神学」という。

 自然神学は、カトリックと自由主義のプロテスタントにおいて支持されているが、福音主義や根本主義の立場をとるキリスト教は、啓示神学のみが真の神学であると主張して、自然神学を否定する。自然神学は、「一般啓示」という考え方にその基礎を置いている。一般啓示とは、いついかなる時と場所においても神は人間と親しく交わり、ご自身を開示されるという意味での啓示であり、伝統的な一般啓示の場として、自然、歴史、人間の性質(良心や道徳的衝動)などが挙げられてきた。しかし、福音派や根本主義者は人間は罪深いので理性や良心によって神を認識することはできないとして一般啓示を否定し、聖書という神が人間に与えた特別な書物によってしか神を知りえないとしている。このような啓示を「特殊啓示」と呼ぶ。

 統一教会に反対しているキリスト教牧師の中でも、福音派に属する牧師たちは、創造原理で展開されている自然神学的なアプローチを、「異教的」という言葉を用いて批判する。櫻井氏の創造原理批判は、こうした福音派による批判と軌を一にするものと言ってよい。しかし、福音派や根本主義の立場はキリスト教神学全体から見れば極端な立場であり、バランスのとれた組織神学の教科書であれば通常は「特殊啓示」と「一般啓示」ならびに「自然神学」と「啓示神学」の両方を認めている。それに照らして見れば、創造原理が展開している論理は決して突飛なものではなく、一種の自然神学とみることができる。

 続いて櫻井氏は、創造原理の説く「陽性と陰性の二性性相」を陰陽二元論としたうえで、「この発想は統一教会が人間を男性性と女性性において理解し、双方の性質が合体したときに繁殖・繁栄がもたらされるという基本的なモチーフから出てきている。これもある意味で極めて民俗的な感覚に根ざしたものであり、東アジア的な心性において絶対神を太極として解釈したものといえなくもない。イスラエル・アラブの民が創造者ー人間・被造世界、絶対者と僕という感覚で神を理解したのに比べれば、東洋の神観は親神、豊穣の神に近い」(p.34)と述べている。

 櫻井氏は基本的に、統一教会はキリスト教とは異質な韓国の民俗宗教に近いものだという絵を描きたいらしい。韓国生まれのキリスト教系新宗教である統一教会に東洋的要素があるのはある意味で当然であり、「陽性と陰性の二性性相」などはその典型的な部分であると言っても良いであろう。しかし、同時に創造原理は聖書に基づき、キリスト教的な枠組みの中で展開されていることを過小評価してはならない。櫻井氏はその部分を意図的に無視し、統一教会をキリスト教として認めたくないようである。聖書的伝統においては、「豊穣の神」といえばバアルやアシュラのような、イスラエルの神が憎んだ淫乱の神を指す。櫻井氏は統一教会をそちらのグループに入れたいのであろうか?

 人間を男性性と女性性において理解し、双方の性質が合体したときに繁殖・繁栄がなされるというモチーフは、聖書そのものの中に存在する。創世記の記述によれば、初めに神は男性であるアダムを創造したが、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を作ろう」(創世記2:18)と言って女性であるエバを創造した。これは男女がペアとなって生きるのが人間のあるべき姿であるということだ。さらに「人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである」(創世記2:24)、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」(創世記1:28)と言っていることからも、男女の結合による繁殖を神が祝福していることは明らかである。これらはすべて聖書的モチーフなのである。

 創世記1章27節には、「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女に創造された」と書かれている。この聖句は、キリスト教における「神のかたち(Imago Dei)」という教義の根拠となっている。これは人間が神に似せて造られたという意味であるが、それでは一体いかなる点において人間は神に似ているのだろうか? 聖書を素直に読めば、「神のかたちに創造し、男と女に創造された」と書いてあるのだから、「神のかたち」とは人間が男性と女性であるということに外ならない。人間は「男と女である」ということにおいて、神に似ているというのだ。したがって、人間に男性性と女性性があるのは神に似てそうなったのであるから、神ご自身の中にも男性性と女性性があるという論理は、完璧に聖書的なものなのである。

 実は福音主義者たちの信奉するカール・バルトもこれと似たようなことを言っている。バルトは人間の本性を他者との関係において存在する「連帯的人間性」であるとし、そのもっとも典型的な関係を「男と女」の関係であるとした。すなわち神が人をその似姿に造ったというのは、これを「男と女とに」造ったことにほかならないと述べているのである。櫻井氏はキリスト教的神観と東アジアの民俗的な神観を対立的にとらえ、統一原理の神観を前者ではなく後者に属するものであると言いたいようであるが、これは聖書やキリスト教神学に対する彼の無知に起因するものであると言える。

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