実況:キリスト教講座42


自然神学と啓示神学(5)

 新約聖書批評学とはどういうものであるかと言うと、信仰の対象としてのイエス・キリストではなくて、歴史的人物としてのイエス、これを「史的イエス(Historical Jesus)」というんですが、その思想と言動を研究することが重要なテーマのひとつです。歴史的人物としてのイエスは、いったいどのような言葉を語り、どんな思想の持ち主であったのかということを客観的に研究するのが、新約聖書批評学の中でも福音書研究の中心的テーマです。ここで問題となってくるのは、人間イエスの思想と後世のキリスト教の教義は違うはずだということです。そこで聖書の記述の中でどれが本当にイエス様が言った言葉で、どれが後世のキリスト教が「教え」として、本当にイエス様が語っていないにもかかわらずイエス様の唇を通して聖書の中で語らせている言葉なのかを分類しようとするわけです。

Five Gospels カバー

 私が神学校にいた当時に新しく画期的な本が出たということで新約聖書学の教授から推薦されて買った本に、”The Five Gospels: What Did Jesus Really Say?”というタイトルがついた本があります。 Five Gospelsというのはどういう意味かと言うと、「5つの福音書」ということです。これを聞いて、「あれっ?」と思った人はキリスト教のことをよく知っている人です。福音書って全部でいくつあるか知っていますか? (4つ)そう、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つですね。なのに、「5つの福音書」というタイトルが付いているわけです。これは新約聖書の外典(正典にに加えられなかった文書)に「トマスによる福音書」というのがあるんですが、これも歴史的人物であるイエス様が何を言ったかについて研究する上では参考になる資料だということで、それも合わせて、Five Gospelsというタイトルをつけたわけです。

 そして、副題として”What Did Jesus Really Say?”と書いてあります。「イエスが本当に言ったことは何か?」という意味ですね。福音書の中にはイエス様が語ったと言われる言葉がちりばめられているんですが、その中で歴史的人物であるイエス様が本当に語った言葉と、イエス様が本当に言ってもいないにもかかわらず後世の聖書記者が書き加えた部分があるに違いないということで、それを分けましょうということです。Five Gospelsの本文を開けてみるとこんな風になっています。

Five Gospels 中身

 この本の中身はカラーになっていて、赤い部分と、ピンクの部分と、グレーの部分と黒の部分というように、4つの色に分けられているんです。この4つの色に分けられている理由は何であるかと言いますと、この赤く塗ってある部分が、歴史的人物であるところのイエスが最も言った可能性の高い、ほぼイエス本人が言ったであろうと評価されている部分です。このピンク色の部分が何であるかと言うと、これと似たようなことをおそらく言ったんではないかと評価されている部分です。そして、青っぽく見えますがグレーで書かれている部分が、おそらくこういうことは言わなかったんではないかと思われる、イエスの言葉である可能性の低い部分ですね。そして黒い部分が何であるかと言うと、これは確実に後世の記者が書き加えたもので、イエス本人が言ったんではないと思われる部分というように、色分けするわけですね。

 このように、聖書の中にあるイエス様のみ言葉を評価して、「ここは本当に言った、ここは本当に言ってない」というような研究をするのが、新約聖書批評学というものです。じゃあどこが赤で、どこがピンクで、どこが黒なのかということをどうやって決めるのかというと、「ジーザス・セミナー」という学会があるんです。これは新約聖書学を専攻している学者たちが集まって研究している学会なんですが、そこで一斉に投票するわけです。それで投票率が一番高かったところが赤、一番低かったところが黒というように、イエス様が本当に何を言ったかということを多数決で決めましょうということです。ものすごい不信仰ですよね。(笑)

 だから、こういうことをやると信仰を失うわけですよ。ですから、統一神学校に行ったときに純粋な食口だった私はかなり試練を受けましたね。「こんなこと研究してるんだ!」ということで、私と一緒に行った多くの人たちも、この聖書学を学んで聖書を信じられなくなるという試練を受けました。聖書を感動的に読もうと思って見たら、そこの部分が真っ黒になっていて、「これはイエス様が言ったんじゃない」ということになると、信仰が破壊されてしまうわけです。これはほとんど信仰にとって害にしかならないんじゃないかと思いました。

 それでもまだ、私たちはいいですよね。聖書に究極の権威があるのではなくて、お父様のみ言葉に権威があるからです。ところが、普通のキリスト教の牧師になるための神学校でも、こういうことを教えるわけです。ですから、牧師になるために純粋な動機で神学校に行ったクリスチャン青年が、神学校で学んでいるうちに信仰を失ってしまうというのは、結構ある話なんです。なぜかと言うと、こういう新約聖書批評学なるものを学ぶからですよ。この聖書批評学というものは、先ほど言った福音派の立場からすればどうでしょうか? 聖書は一言一句間違いなく神の言葉であり真理だ、神の啓示だと思っている人からすれば、これはとんでもない不信仰ですよ。ですから、こういうものは一切認めない、否定するという立場に立ちます。しかし、リベラルなクリスチャンから見ると、やはり聖書も時代的制約を受けているので、こういう学問の対象にして研究しないと、本当にイエス様が何を言いたかったのかは逆に分からないととらえるわけです。このように、聖書に対するとらえ方がリベラルと福音派ではまったく異なっているということなんですね。
 
実況:キリスト教講座挿入PPT42-1

 次に「キリスト観」、キリストという存在についてどのようにとらえるかというと、福音派のキリスト観は次のようなものです。キリストは人類の罪を身代わりとなって引き受けた超人間的存在であり、奇跡的出来事である処女懐胎とか、復活とか、さまざまな奇跡の物語が、聖書の記述通り実際に起こったと信じる、という立場を取ります。すなわち、水の上を歩いたとか、パンを増やしたとか、死体が蘇ったとか、病気を治したとか、いろんな奇跡の物語が、まさに聖書の記述通りに実際に起こったと信じる立場です。ですからキリストは、罪人である私たちとは全くかけ離れた、まさに神のごとき存在であるということになります。ですから奇跡が起こるのも神の子なんだから当たり前であり、キリストと私たちの間には無限の距離がある。こういうキリスト観ということになります。その貴い、神様に等しい存在であるイエス様が十字架にかかって亡くなってくださったことによって、人類の罪が許されるんだという贖罪論が成り立つわけです。

 それに対して、自由主義のキリスト教にとってキリストとはどんな存在であるかと言うと、キリストは確かに偉大な宗教的指導者であると認めますが、神性はさほど強調しません。自由主義におけるキリストというのは、「キリストは神ご自身である」として、神として崇め奉るのではなくて、むしろ模範的な人間として理解されます。キリストが奇跡を起こしたとか、水の上を歩いたとか、パンを増やしたとか、そんなことは全然本質的なことじゃないんだということで、これはキリストを神秘化するために後世の人がでっち上げたに違いないというくらいに、キリストにまつわる奇跡的な出来事に関しては、懐疑的にとらえています。

 私たちがキリストから何を学ばなければならないかと言うと、隣人のために自分の命を投げ捨てたその愛にこそ、人類の歩むべき道が示されており、人間の見本なんだととらえるわけです。あのようにすべての人が生きなければならないというモデルを示してくださったということが、キリストの価値であるということです。だから私たちはキリストによって救われるというよりも、キリストに似る者とならなければならない、という考え方をします。これが極端になりますと、キリストは道徳の教師であるということになってしまいますが、キリストの人間的側面を強調するという点で、福音派と大きく違ったキリスト観を持っているということになります。

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