統一原理の神観について(7)
次に陽性と陰性、すなわち男と女という観点から統一原理の神観と伝統的なキリスト教神学の神観を比較してみたいと思います。この部分は、私の著書『神学論争と統一原理の世界』では29ページから始まる、第1章1の「神は男性か女性か?」という、これまた分かりやすいタイトルで論じています。その冒頭の部分だけちょっと読んでみましょう。
「神は男性か女性か? 一見単純で幼稚にさえ聞こえるこの問いかけが、実は現代キリスト教においては大問題なのである。日本では、イザナギ・イザナミの神話に代表されるように男性神と女性神の両方が存在し、女神の存在はポピュラーだ。同様に多神教の文化圏では男女両方の神々が存在し得る。
しかし一神教となると、どちらか一方に性別を決定しなければならない。一神教の代表選手であるキリスト教の歴史の中には、神には男性と女性の両方の性質があると見る教団もなくはなかった。しかしそれらはいずれも少数派であり、伝統的には神は『父』であり、男性格であった。
伝統的なキリスト教神学の論理によれば、神が男性であるがゆえにキリストであるイエスは男性であったし、神とキリストの代身である教皇・司祭・牧師もまた男性でなければならない。」(『神学論争と統一原理の世界』p.29)
ですから、いまでもカトリックにおきましては女性はシスターにはなれますが、司祭とか教会の責任者にはなれないわけです。すなわち、男性でなければキリストを代身できない、男性でなければ神を代身できないという考え方です。
「しかし女性解放運動が誕生して以来、あらゆる領域における男性中心主義に対して批判が高まり、それは今や神学の領域にまで浸透している。」(前掲書、p.29)
おもに1960年代以降、女性解放運動がさかんになって、アメリカ社会の中で「ウーマン・リブ」とか「フェミニズム」の思想の下で女権の拡大が起こりました。これが神学にも大きな影響を与えて、キリスト教神学も男性中心主義を改めなければならないという動きが登場することになるわけであります。
ちなみに、私はアメリカに留学したもんですから、アメリカにおいて男女差別というものがいかに攻撃され、非難されるかということを一つの例としてお話ししたいと思います。アメリカの神学校ですから当然、英語で論文を書くわけです。英語で論文を書くときに、誰か人物について描写をする際にはよく代名詞で受けるわけです。ある文章で記述しているのが特定の男性または女性ではなくて、人間一般について述べている場合には、”he”という代名詞で受けると、それはダメだと言われるわけです。それは”sexist langauge”、すなわち性差別主義者の表現であって、男女平等の言葉遣いではないと言われるのです。ですから”he”ではなくて、”he or she”とか、”he/she”とか、めんどくさいんですけれども、男女が特定されていないのであれば両方の性別で書かないと、「あなたは性差別主義者だ」と言われて、論文の内容がどんなに素晴らしかったとしても、この言葉遣い一つで読んでもらえなくなるということがあるのです。そこで必ず”men and women”とか”he or she”とか、男女両方の性別を表現しないとダメだと指摘されるわけです。
それから”Man”という言葉がありますが、これは伝統的な英語では「人間」という意味と「男」という意味の、二つの意味があったんです。ですから必ずしも男性でなくても人間一般という意味で”Man”という言葉を使うことはあったんです。ところが最近では、じゃあ人間はみんな男なのか、人間は男によって代表されるのか、と言われて、”Man”という言葉を「男」という意味に限定して、「人間」という意味で使えなくしてしまえという運動が起こったわけです。その結果、最近では”Man”という言葉を「人間」という意味では使えなくなってきているわけです。
英語でも「言葉狩り」というのがありまして、”Chairman”という言葉は使えなくなってきています。これは「議長」という意味なんですが、「議長のような要職を務めるのは男だけなのか?」ということで、”Chairperson” にしなさいと言われます。”Person”というのは中性だからです。こういうわけでいまは、”Chairman”という言葉は使えなくなっています。Congressmanもダメですね。これはアメリカの下院議員のことですが、Congresswomanもいるわけですから、性別が特定されない場合にはCongresspersonとかMember of Congressとか言わなければなりません。Policemanもダメですね。これはPolice officerと言い換えられます。そのような言葉狩りがあるのです。最後は道端の「マンホール」もダメで、「パーソンホール」にしないとダメだという、冗談のような話になるわけです。「マンホール」というのは人が入る穴だから「マンホール」というわけですが、何もマンホールに入るのは男ばかりじゃないだろうということです。
そうすると、原理講義のときもいろいろと言葉遣いに気をつけなければならなくなってきます。英語の原理講論では、”Black Book”と呼ばれる初期の原理講論においては、第2章の堕落論のタイトルを”The Fall of Man”としていたんです。Fallというのは堕落ですね。ここでのManは人間という意味で、直訳すれば「人間の堕落」ということになります。私はアメリカの神学校にいたときに、授業で原理講義演習をやりました。もちろん英語で原理講義をする練習なのですが、原理講論の通りに”The Fall of Man”と黒板に書くと、その指導教官が女性でありまして、ツカツカとやってきて”Man”のところにでっかいバツをつけるんですね。「これ直しなさい。こんなsexist langaugeを使って語ったら、アメリカでは女性が反発して聞いてくれません。これはThe Fall of Humankindにしなさい」と指導するわけです。一応この”Humankind”というのは中性だと認められているそうであります。
陽陰の二性性相というのも、英語にしようとするととても難しいです。最初に当てられた訳語が、陽が”Positive”で、陰が”Negative”だったんですね。でもその通りに原理講義をして、男がPositive、女がNegativeと書けば、女性は大反発ですよ。「私のどこがNegativeなんだ!」というわけです。英語のNagativeには否定的な意味がありますからね。そういう言葉遣いでは女性が伝道されないわけです。ですから、いまの英語の原理講義ではこのPositiveとNegativeという表現は避けて、YangとYinという表現を用いています。とにかくそういう女性差別的な表現というものにとてもうるさくて、それに気をつけないと社会で受け入れられないわけです。
そういう男女平等が徹底した社会で、「神様は男です。あなたがた女性は神様の似姿ではありません」なんていう神学が、社会一般に受け入れられるかというと、それは大変大きな抵抗を受けるわけです。ですから伝統的な神学に極めて男性中心主義的な傾向があったために、これに対して反発するフェミニスト神学というものが20世紀に入って登場するようになり、それがどんどん既成の神学の中にある男性中心主義的なものを批判克服していこうとしたわけです。
だいたいフェミニスト神学者たちは女性ですから、彼女たちがどのようなことを言ったかというと、「伝統的なキリスト教の神観は、男性中心社会の産物である。神学も文化の影響をまぬがれ得ず、神概念にはその時代や社会において価値視されているものが投影されている」と言ったわけです。いままでの社会が男性中心社会であったので、キリスト教神学も男性中心主義的な神学になり、だからこそ神を「父」として表現してきたんだというわけです。このように、キリスト教神学における男性中心主義を批判・克服しなければならないということが、20世紀の半ばになって声高に叫ばれるようになったわけです。
このフェミニスト神学というのは、主にプロテスタントや聖公会などに大きな影響を及ぼしました。具体的には、それまで男性しか牧師になれなかったような教団においても、女性が牧師として叙階される権利を勝ち取っていったわけです。しかし、これは伝統に逆らうことであるので、古い伝統のある神学ほど、このような新しい理念に対しては抵抗を示すわけです。伝統のある保守的な教団の代表がカトリックです。ですから神学の修正は難しく、いまだにカトリックの司祭には男性しかなれません。女性にはその道は開かれていません。