書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』43


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第43回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第4章 統一教会の事業戦略と組織構造」の続き

 櫻井氏は本章の「四 摂理のグローバルな経営戦略」の中の「2 摂理システムにおけるグローバル化戦略」において、グローバルな摂理戦略の中で日本の統一教会が置かれている状況の特殊性を強調した上で、以下のように述べている。
「以上、各国ごとに宣教戦略が異なり、統一教会に世界標準的な宣教方針や事業方針があるのではない。そうであれば、信者の入信過程、統一教会の事業展開と該当国政府や一般社会との対応関係を一律に考えるのは不適切である。従来の欧米における統一教会研究は、負け犬や問題児としてホスト国で扱われた特殊な『カルト』教団の事例にすぎないのであり、そこから花形スターや金のなる木となった韓国や日本の事例を考察することは全く的を射ていない研究であることが明らかになったと思う。」(p.157)

 櫻井氏が日本統一教会の特殊性をことさらに強調する動機は、統一教会への回心が自発的なものであるという結論を出した海外の先行研究を相対化し、その価値を引き下げるとともに、自らの研究を彼らの上に位置付けたいからであることは、既に先回述べた。しかし、彼の主張を批判するためにはこうした動機を分析するだけでは不十分であり、上記の主張の細かい問題点にも触れなければならない。彼の主張はかなり乱暴なものだが、問題となる点を逐一列挙してみよう。

 そもそも、各国ごとに宣教戦略が異なるのは何も統一教会に限ったことではなく、キリスト教をはじめとして世界に宣教に出かけていく宗教には普遍的にみられる現象である。それは伝えようとする宗教に対して宣教国の文化が親和的であるか敵対的であるか、宣教国が豊かな先進国であるか貧しい開発途上国であるか、宣教国の政府が信教の自由を尊重しない独裁的な政府であるか、それとも信教の自由を保証する民主的な政府であるかによって、宣教方針はおのずと異なるのであり、どの国にも同じ宣教教方針を立てるということ自体が不合理で非現実的なことなのである。キリスト教に世界標準的な宣教方針があるとすれば、それは「神とキリストを宣べ伝えること」であろう。しかし、宣べ伝える方法は国ごとの事情によって異なるので、各国の宣教状況を一律に考えるのは不適切である。同様に、統一教会の世界標準的な宣教方針も「神と真の父母を伝えること」であり、具体的には統一原理の教えを宣教地に根付かせることであると言えるが、その伝え方は国ごとの事情によって異なる。この点はキリスト教と全く同じである。

 したがって、ある新宗教が特定地域に宣教された際には、その地域で得られた知見は基本的にその範囲にのみ当てはまるというのは、いわば常識であって、いまさら櫻井氏に教えてもらうほどのことでもない。アイリーン・バーカー博士の「ムーニーの成り立ち」は、自身の研究がイギリス、ヨーロッパ、アメリカの統一教会に関する研究であり、その結果がアジアの統一教会にそのまま当てはまるわけではないことは十分に自覚しているし、またそのことははっきり表明している。

 にもかかわらず、特定地域における統一教会の研究は、一つの独立した研究として客観的な価値を持ったものであり、櫻井氏が言うように「負け犬や問題児としてホスト国で扱われた特殊な『カルト』教団の事例にすぎない」などと切って捨てることのできるものではない。これは先行研究に対する極めて傲慢で失礼な態度であると言えるだろう。先行研究に言及する際には、その知見のどこが日本や韓国の統一教会にも当てはまる普遍的な部分であり、どこが西洋にしか当てはまらない特殊な状況なのかを、自分が調査したデータと比較しながら客観的に分析するのが学者としての作法であって、櫻井氏のように一方的に蔑んで価値を否定する態度はおよそ学問的とは言えない。

 なぜ櫻井氏はこのような学問的比較をしないのであろうか? それは彼が西洋の統一教会研究者たちのように、直接統一教会と関わって調査することを意図的に避けているからである。自分で調べた実証的なデータがあれば、それを先行研究と比較して客観的で冷静な分析が可能であろう。しかし、彼には自ら調べた実証的なデータがないので、比較のしようがないのである。そのような研究における「負い目」を、宣教戦略や「摂理的役割」が違うというような主観的で実証不可能な概念を振りかざしてごまかしているので、彼の記述は学者のものとは思えないような感情的な表現になっているのである。

 そもそも櫻井氏は、韓国、アメリカ、日本、その他の国々に対する宣教戦略や「摂理的役割」が異なることが、入信過程を分析する上でどのように影響するのかをまったく説明していない。入信過程の分析は、アイリーン・バーカー博士がテーマとしたような、「洗脳」や「マインド・コントロール」なのか、自発的選択なのかを問題とするわけだが、これに関して国ごとの違いを強調するためには、各国における伝道プロセスの違いを事実に基づいて説明しなければならない。筆者が「ムーニーの成り立ち」を通して知ったことは、西洋にせよ日本にせよ、道端で声を掛けられるか縁故関係から紹介されるかして教義を学び始め、泊まり込みの研修会に参加して統一原理について説明する講義を受講し、それを受け入れた者は入信するという点では、西洋も日本も伝道されるプロセスに大差はないということである。さらに、受講した者のうちで最終的に信者になる者は数パーセントにすぎないという点も極めてよく似ている。

 日本における唯一の参与観察による実証的な研究である塩谷政憲氏の論文も、原理研究会の修練会は洗脳ではなく、原理を受け入れるかどうかは本人の選択であったという結論を出しており、アイリーン・バーカー博士の主張を裏打ちしている。入信過程に関しては、国家や文化の壁を超えた普遍的な事実が存在するという多くの証拠があるのである。にもかかわらず、国ごとに宣教戦略が異なるから入信過程に関する知見も他国の情報はまったく参考にならないとする櫻井氏の主張は、どのような事実を根拠として言っているのであろうか? 彼自身が直接統一教会の入信過程を観察し、宗教社会学的な方法論に従ってデータ分析し、日本や韓国における入信過程は西洋における入信過程と比較して明らかに洗脳的で自由意思が抑制されているという証拠を提示して初めて、彼我の違いについて論じることができるのであり、それが学問的態度というものである。そうした根拠の一切ない彼の主張は、主観的な思い込みによる決めつけとしか評価することができない。

 櫻井氏は、従来の欧米における統一教会研究は、「負け犬や問題児としてホスト国で扱われた特殊な『カルト』教団の事例にすぎない」ので、当該国政府や一般社会との対応関係も一律には考えられないと主張する。ここでいう「負け犬」や「問題児」は(彼の解釈した)統一教会側の宣教戦略上の位置づけなので、当該国政府や一般社会が統一教会をどのようにみているかとは関係がない。統一教会側の各国家に対する位置づけがどうあれ、どの国においても統一教会が政府や社会から受けてきた扱いには、さほど大きな違いがあるわけではない。一言でいえば、統一教会は韓国においても、日本においても、アメリカにおいても、ヨーロッパにおいても、奇妙な新宗教として社会から白眼視され、政府から少なからず迫害されてきたという共通点がある。韓国では梨花女子大事件で文鮮明師が逮捕されている。アメリカでは文鮮明師は脱税容疑で有罪判決を受けてダンベリー刑務所に服役している。また、ディプログラミングと呼ばれる強制改宗も行われたし、教会を相手取った訴訟も起こされた。日本では「霊感商法」が問題視され、特定商取引法違反で信者が逮捕されたり、献金返還訴訟や青春を返せ訴訟などで不利な判決を受けている。統一教会側の宣教戦略上の位置づけがどうあれ、どの国においても統一教会に対する政府の態度や社会的評価は厳しく、それらの偏見や迫害を克服するために努力しているという点では共通しているのである。

 もちろん、国や文化圏によって迫害や偏見の理由や性格は異なるかもしれない。韓国における迫害は、宗教上の異端正統論争を背景としたキリスト教会からの反対が強いし、アメリカにおける迫害は白人至上主義者たちによる黄色人種に対する差別や偏見という社会的背景があるであろう。日本においては、日本人の韓国人に対する差別や偏見、さらには「霊感商法」に代表されるような経済活動が社会の反感を買ったという側面が強いであろう。私自身は「カルト」という言葉は曖昧で多義的なレッテルにすぎないので使わない方が良いと思っているが、韓国においても、アメリカにおいても、ヨーロッパにおいても統一教会が「カルト」や「セクト」などと呼ばれて迫害され、主流の文化や政府から白眼視されてきたことは共通の状況であって、櫻井氏が強調するほどには各国の事情は異なっていないのである。

 以上により、欧米における統一教会の先行研究が韓国や日本の統一教会を分析するにあたってまったく参考にならないという櫻井氏の主張は、あらゆる観点からみて根拠のないものであることが明らかになったと思う。

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