書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』06


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第六回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第1章 統一教会研究の方法」のつづき
 櫻井氏は本章の中で「統一教会に関する学術的研究」と題して、先行研究を紹介している。櫻井はここで紹介する対象を社会科学分野の学術論文に絞っているが、統一教会を実際に調査した研究は欧米、日本を問わず少ないという。ここまでは事実と認めてよいであろう。しかし、それに続く以下の解説は明らかに間違っている。

「しかも、調査時期は統一教会の活動が社会問題として深刻化する前の時期であり、若者がなぜ統一教会という新宗教に惹きつけられるのかという純粋に宗教社会学的な関心による調査だった。しかし、最も社会的葛藤を生み出し、心理学者や統一教会の批判者から統一教会によるマインド・コントロール批判がなされた時期に、統一教会の調査研究はなされていない。」(p.11)

 宗教社会学者である櫻井氏が、「純粋に宗教社会学的な関心による調査」をあたかも不十分なものであるかのように記述しているのは驚きだが、統一教会の関する社会学的な先行研究が、統一教会の活動が社会問題化される前の時期に行われたという指摘は完全に間違っている。彼の紹介する代表的な研究がイギリスの宗教社会学者アイリーン・バーカーの『ムーニーの成り立ち』(1984年)だが、彼女の著作を見れば明らかなように、彼女が調査研究をしていたときに既に統一教会はイギリスにおいて「社会問題」として懸念されていたし、イギリスだけでなく西欧社会全体でその評判は極めて悪かった。『ムーニーの成り立ち』の一部を引用すれば以下の通りである:

“今日の西洋で、誰かに「ムーニー」という名前を言えば、恐らく帰ってくる反応は、微妙な身震いと激怒の爆発の中間あたりに属するであろう。世界中で報道の見出しは一貫して断罪調である。「奇怪なセクトによる『洗脳』と闘う父母たち」「文師の世界制覇計画が語られる」「ロンドン警視庁による『洗脳』への徹底的調査に直面するムーニー・カルト」「家庭崩壊の悲劇」「ムーン教会で集団自殺があり得る、と語る3人」「洗脳された娘の所にかけつける母親」「ムーニーが私の息子を捕まえた」「ムーニー:マギー(注:マーガレット・サッチャーの愛称)が行動要請」「オーストラリアの『狂信的』カルト」「神ムーンが我々から子供を引き離す」「1800組のカップルとレバレンド・ムーン」「日本で500人の父母がセクト活動に抗議」「ムーン信奉者への警察捜査」”(「序文」より)

 『ムーニーの成り立ち』が出版された1984年には、文鮮明師は既に脱税容疑で有罪判決を受け、2万5千ドル(プラス費用)の罰金を科せられ、18カ月の禁固刑を言い渡されていた。これが後のダンベリー刑務所への収監へとつながるわけだから、『ムーニーの成り立ち』はむしろ統一教会の活動が社会問題化されている真っ只中で出版された書物であり、それ以前の研究であるという指摘はまったくの間違いである。また、櫻井氏はバーカー博士の研究対象を「1960年代のイギリスの若者」(p.11)「1960年代後半のイギリス社会」(p.12)と表記しているが、バーカー博士が初めて統一教会に出会ったのは1974年であり、本格的な調査を開始したのは1977年に入ってからであった。そしてバーカー博士が統一教会の2日修練会に参加した者たちのその後の追跡調査を行ったのは1979年である。したがって、彼女の調査時期は実際には1970年代後半であるにもかかわらず、櫻井氏は10年も前の時代を表記している。開拓期の宗教における10年の違いは大きい。これは社会学者としては致命的なミスか、あるいはバーカー博士の研究の価値を貶めるための捏造としか考えられない。

 また、バーカー博士が研究をしたころには、心理学者や統一教会の批判者による「洗脳」や「マインド・コントロール」の非難は既になされていた。だからこそ、こうした主張がはたして本当であるかどうかを確認するために、バーカー博士は調査を行って検証したのである。それは「選択か洗脳か?」という著書のサブ・タイトルが顕著に表している。日本における塩谷政憲の研究も、統一教会に対する「洗脳」の非難があったからこそ、その真偽を確かめるための参与観察が行われたのであって、そうした批判がなされる以前の研究ではない。

 バーカー博士の『ムーニーの成り立ち』には、1980年から81年にかけて、統一教会がデイリー・メール紙を相手取って名誉毀損訴訟を起こし、これと闘っていたことが紹介されている。1978年5月29日、大衆タブロイド紙であるデイリー・メール紙が、統一教会は洗脳を行い家庭を破壊していると非難する記事を掲載したからである。この裁判で「洗脳」問題の専門家として証言しているのが心理学者マーガレット・シンガーである。シンガーの名前は『ムーニーの成り立ち』の第5章「洗脳か選択か」に何度も登場するが、それは彼女が統一教会を巡る米国での法廷闘争の主要な論争相手であったためである。

 バーカー博士が見極めようとした「選択か洗脳か?」という問題は、純然たる学問的考察ではなく、もっと実際的な問題が含まれていた。それは裁判所がある成人の責任を別の成人に移譲することができる「成年後見命令」という制度である。米国では、両親がこれによって成人している子供に対する一定期間の法的監護権を獲得し、その間に子供たちがディプログラミングやカウンセリングを受けるケースがいくつかあった。1970年代後半には、この「成年後見制度」をめぐる闘争が続いたが、1977年3月にS・リー・バブリス裁判官は、5人の統一教会メンバーの両親が子供を30日間拘留することを認める判決を出した。その判決は後の上訴審で覆されることになったが、そのときまでに5人のうち4人がディプログラムされてしまった。もし「洗脳」や「マインド・コントロール」が科学的な理論として法廷で認められてしまえば、こうした悲劇が繰り返されてしまうところだったのである。

 バーカー博士の研究は、後に「モルコ・リール」対「統一教会」と呼ばれる米国の民事訴訟で、「洗脳」や「マインド・コントロール」の主張を科学的に反証する根拠として用いられた。この事件では、2人の元統一教会員が、「強制説得」、不法監禁、意図的な感情的圧迫、詐欺の被害を受けたという理由で教会を訴えた。原告らは自分たちが「強制説得」の被害者だったという主張を正当化する上で、マーガレット・シンガーの証言に大きく依存した。これに対して、米国心理学会の有志らは、カリフォルニア州最高裁に「洗脳」や「マインドコントロール」を否定する内容の「法廷助言書」を提出したが、そのときバーカー博士の研究は、最も信頼できる科学的根拠として紹介されている。したがって、バーカー博士の研究はまさに「洗脳」や「マインド・コントロール」を巡る学問的論争と法廷闘争の真っ只中で行われたものであり、それ以前のものではない。

 櫻井氏は、バーカー博士の研究自体に関しては、「宗教社会学において古典の地位を占める」「調査は社会学的調査として周到である」(p.11-12)などと、肯定的な評価をしている。社会学的な調査方法として、一般的には非の打ちどころがないからである。また、バーカー博士の出した結論に関してもほぼ正確に解説している。しかし、研究対象が統一教会であるというそのことの故に、それを巡る問題点や論争が紹介され、彼女の研究を批判したジェームズ・ベックフォードの主張も並列で紹介されている。それは「教団から持ちかけられてセッティングされた調査研究の知見は客観的・価値中立的なものか」(p.12)という問題である。

 櫻井氏は、「この問題は、新宗教の教団調査には必ずついてくるもので、ほとんどの場合、新宗教の調査は教団の好意により被調査者を推薦してもらい、彼らにインタビューし、教団の標準的な教えを信者の語りから拾い出すということを行っている。教団にとって都合のいい事実のみが調査されているのではないかという疑念が出されるわけだ」(p.13)と述べている。しかし、バーカー博士の研究に限って言えば、この問題はクリアーされている。彼女は教会がインタビューさせたいと考えるメンバーだけに会うのではなく、ランダム・サンプル方式でインタビューをすることができるように、メンバーの完全なリストを入手したからである。彼女はグループ全体の各メンバーが平等に選ばれるチャンスのある無作為に選ばれた十分な大きさのサンプルを調査することにより、そのサンプルがグループ全体を反映する状況を作り出した。それに比べると、統一教会反対派の調査したサンプルは、教会を脱会し、入信を後悔している人々であり、しかもその多くはディプログラムされ、その過程で運動について彼らが今になって言うことの多くを教えられてきた人々で構成されているという点において、明らかにバイアスがかかっている。

 そもそも、教団から好意を受けたり便宜を図ってもらうことなしに、現役信者に関する社会学的な調査を行うことなど不可能である。それが調査倫理上の問題になるといって批判するのであれば、それは調査そのものが不可能だと言っているに過ぎず、何ら建設的な意味内容を持たない。同じような懸念をローランド・ロバートソンも表明しているというが、その内容は「①統一教会は学者を利用する、②統一教会は会議参加者を統一運動への参加者とみなす、③統一教会のファンドは特殊な方法で調達されたものであることを、研究者は最低限認識すべきだ」(p.13)といったもので、要するに統一教会に近づくのは危険だといっているだけで、およそ学問的批判とは言い難いものである。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』 パーマリンク