実況:キリスト教講座41


自然神学と啓示神学(4)

 この福音主義とは何か、あるいは福音主義神学の問題点とは何か、ということを理解するためには、福音主義以外にはどんな考え方があって、キリスト教全体としてどういう構図になっているのかという全体像を理解しなければなりません。そこでいまから皆様に、「現代キリスト教の二大潮流」ということで、おもに現代のプロテスタント教会を二つに分けている大きな神学的流れについて概略を説明しますので、その中での福音派の位置というものをとらえていただきたいと思います。

 さて、カトリックはちょっと脇に置いておいて、いまプロテスタントには大きく分けて二つのグループが存在します。一つが「福音派」と呼ばれる、この福音主義神学を信奉するキリスト教のグループです。これは英語では「エヴァンジェリカル(Evangelical)」と呼ばれています。「エヴァンゲリオン」じゃないですよ。(笑)これは「福音派」という単一の教派があるということではありません。数多くあるキリスト教の教派の中で、比較的聖書を文字通り、とっても信仰的にとらえようという傾向の強い教派のことをまとめて「福音派」と呼んでいるわけです。もう一つ、それに対抗する勢力として、自由主義とかリベラルなキリスト教と呼ばれるものがあります。これは基本的には、聖書を文字通りにとらえるというよりは、より現代的で自由な解釈をしようとする教派のことです。これらが二大潮流をなしています。

 一昔前まではこの自由主義のことを「主流派」(mainstream)のキリスト教と呼んでいたんですが、いまや人口的にはどっちが多いかというと福音派の方が多くなっています。ですから、「主流派」の教会の方が人口が少ないということになっているので、もはや「主流派」と呼ぶことはできなくなってしまいました。なぜ福音派の方が増えたかというと、一言でいえば伝道熱心だからです。

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 この二つの神学的立場というものを比較するとこうなります。まず福音派の方は、この講義のタイトルである「啓示神学と自然神学」の中で、啓示神学だけが神学と呼び得るものであって、自然神学などというものは認めないという立場を取っています。啓示神学とは何かということは後ほど詳しく説明します。それに対して自由主義の場合には、もちろん啓示神学は認めますが、自然神学というものもあり得ますよということで、これを支持するという点が違います。啓示神学というのは聖書に基づく神学ですから、キリスト教である以上、啓示神学を否定するということはあり得ません。しかしながら、啓示神学に加えて自然神学を認めるのか、認めないのかということで立場が分かれるということです。リベラルなキリスト教の方は、「自然神学も有りだ」と言っているわけです。ちなみにカトリックも「自然神学は有りだ」と言っています。

 次に啓示とは何であるかということですが、特殊啓示のみが啓示と呼ぶに値するというのが福音派の立場です。それに対してリベラルの方は特殊啓示と一般啓示の二種類の啓示があるととらえています。この特殊啓示と一般啓示が何であるかということも後ほど詳しく説明します。次に神観でありますが、福音派の方は、超越神というイメージを持っています。自由主義の方は内在神というイメージを抱いています。この超越神と内在神が何であるかに関しても後ほど説明します。この辺が大きな違いということになります。

 さて、これから福音派とリベラルがどれほど違った考え方を持っているかということをさまざまな観点から説明しますが、最も根本にあるのは聖書観の違いです。聖書をどのようにとらえるかという考え方の違いですね。

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 福音派の聖書観というのは、聖書は神から与えられた完全な啓示であり、すべて字義通りの真理である、というものです。したがって、聖書の批評学的研究を不信仰として否定します。そして根本主義や逐語霊感説といったものは、福音派内のさらに極端な立場のことを言います。午前中に韓国の根本主義の話をしましたが、この根本主義というのは、福音派の中でも最も徹底的に、文字通り聖書の言っていることは真理なんだと信じる立場です。だから、天変地異が起こると書いてあれば起こるんだ、肉体が復活すると書いてあればその通りになるんだ、というようにことごとく文字通りに信じようとする立場を、根本主義と言います。福音派の中でも若干温度差があって、徹底的に信じようとする立場を根本主義と言います。この逐語霊感説とは何であるかというと、聖書の一言一句はすべて神の霊感によって与えられたものであって、いわば人間的要素は一切ないという考え方ですね。ですから、あたかも自動書記のように神様の霊が書いたんだというように信じている立場を逐語霊感説と言います。これらはとても極端な考え方でありますが、福音は全体としては、聖書は完全な神の啓示であると、極めて信仰的なとらえ方をしていることは間違いありません。

 それに対して自由主義の方は、聖書に対してもう少し現代的な見方をします。聖書は最も重要な真理の源泉ではあるけれども、無謬の書ではない、すなわち間違いが一切ない完全無欠の書物ではなくて、その時代において書かれたものとして、時代的・文化的制約を受けているので、現代には通用しないものもたくさん含まれているから、それをそのまま現代に当てはめようとしても無理があるんだというわけです。そもそも科学が発達する以前に書かれたものですから、非科学的世界観に基いて書かれているんだから、それを現代人が文字通りに信じろということ自体がナンセンスだということです。だから、聖書には現代的解釈が必要だと考えます。そのためにも、聖書の批評学的研究というのもあっていいんじゃないかということで、これを肯定的に評価します。このように聖書に対する見方が福音派と自由主義では非常に異なっているということなんですね。

 じゃあ、ここで出てくる「聖書の批評学的研究」とはいったい何でしょうか?これは神学校に行くと習います。実は、聖書の読み方には大きく分けて二通りあります。一つは、心霊的、信仰的読み方です。おそらく皆さんはこういう読み方しかしてないんじゃないかと思います。何故聖書を読むのか? それは自分の信仰の糧にしたい。聖書を読むことを通して何か自分の信仰にプラスになるようなことを発見したいと思って、信仰をもって霊的に読むということです。多くのクリスチャンが日々の信仰生活の中で聖書を読む読み方というのは、こういう読み方です。

 ところがこれ以外にも別の読み方があって、学問的、批判的読み方というものがあります。この学問的、批判的読み方というのが、聖書の批評学的研究に当たるわけですが、それは聖書の各部分を書いた著者の年代、背景、思想的傾向、想定されていた読者、語ろうとしたメッセージの内容、あるいは本文編集の過程などを研究する学問です。聖書というのは最初から完成していたわけではなくて、いろんな人の手が加わって編集されているんだということで、その編集の過程を学問的に、極めてクールに客観的に分析する学問のことを聖書の批評学的研究と言うわけです。

 たとえば、旧約聖書批評学にどんな内容があるかと言うと、いわゆるモーセ五書ってありますよね。モーセ五書というのは、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記という旧約聖書の一番最初に出てくる5つの書物です。これは伝統的な見解によればモーセが書いたとされているので、「モーセ五書」と呼ばれているんです。ところがそれをよく読んでみると、申命記の最後に「かくしてモーセは死んだ」と書いてあるんですよ。モーセが書いたのに、「かくしてモーセは死んだ」というのはどういうことですか? ということですね。つまりモーセが書いたんじゃなくて、誰かほかの人が書いたんじゃないかという疑問から始まって、じゃあいったい誰が書いたんだということを分析していくと、どうもモーセ五書の中にはものすごい古い年代の文章と、比較的新しい年代の文章が、創世記から始まっていろいろごっちゃに混じって編集されているということが分かるということで、言葉遣いや世界観の特徴に従って分類したわけです。その結果、大きく分けて4つの元の資料があって、それが編纂されてモーセ五書になったに違いないということで、J・E・P・Dという4つの資料に分類し、それぞれの時代の特定と編纂過程を研究しました。これが旧約聖書学の出発点になった研究なんですが、それと同じようにイザヤ書とかエレミヤ書とか列王記とか、他の書物も批判的に分析するようになったわけです。

 この「J資料」というのは、神様を「ヤーウェ」(Jahweh)と呼ぶ文書なのでこう呼ばれるようになり、「E資料」というのは神様を「エロヒム」(Elohim)と呼ぶ文書なのでこう呼ばれるようになりました。P資料は「祭司(Priest)資料」という意味で、祭司の集団が書いたと思われる資料で、D資料というのはDeuteronomy 、すなわち申命記の著者が書いたとされる資料です。全部これは時代が違うんですね。それらが歴史的に組み合わされて、編集されていまの旧約聖書になったんだというような、資料批判をするのが旧約聖書批評学の主な内容です。

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