書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』30


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第30回目である。今回より、第Ⅰ部の新しい章に入る。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第4章 統一教会の事業戦略と組織構造」

 櫻井氏は本章で、「統一教会の世界宣教戦略をグローバル化に対応した多角化戦略という視点から考察」(p.127)することを試みている。こうした視点を採用する理由として櫻井氏は、「統一教会自体が、多国籍企業的な活動を展開する宗教、ないしは宗教部門を有する多国籍企業という形態をとっている」ことと、「グローバル化や多角化という経営戦略が宗教文化の伝播・土着化を大いに助ける側面があるということを統一教会の事例は如実に示してくれる」(p.127)という二つの理由を挙げている。こうした表現を見ると、統一教会を宗教団体としてではなく、一つの多国籍企業としてとらえ、経営学的な視点や、グローバルな視点からその事業戦略を分析しようという試みであると思える。こうした研究が純粋に学問的な探究心に基いて行われていたならば、それは筆者にとっても非常に興味深い研究になったであろう。なぜなら、統一教会の宣教戦略の長所と欠点が客観的に分析されていれば、それは今後の発展に役立つからである。しかし、櫻井氏の動機はどうやら別の部分にありそうだ。

 統一教会は世界中に宣教されている宗教なので、グローバルな視点から分析するというのはある意味で当たり前である。ところが従来の統一教会研究は、地域ごとの相互交流がほとんど行われてこなかった。統一教会研究は大きく分けて韓国、日本、欧米でなされてきたが、韓国においては既成キリスト教会からの「異端」という批判を込めた神学的な研究が主流であった。日本においては反対牧師などによる神学的な批判のほかに、経済問題や社会問題として扱った反対派の著作が多く、客観的で学問的な研究は少ない。欧米にも批判的研究は存在するが、「カルト論」や「マインド・コントロール論」を巡っては客観的で価値中立的な研究が行われてきた。その代表がこのブログでも紹介したアイリーン・バーカー博士の『ムーニーの成り立ち』である。

 櫻井氏は国際的な学会で統一教会に関する発表を行い、欧米の宗教社会学者たちと統一教会について意見を交換するチャンスが何度かあったようだが、彼らとの相互理解に困難を感じていたようである。その大きな要因は、西洋の宗教者社会学者たちが統一教会を純然たる宗教であるととらえていたのに対して、日本では宗教というよりも「霊感商法」などの経済問題がクローズアップされていたからである。櫻井氏自身が「いわゆる統一教会による『霊感商法』は欧米の研究者に理解されにくい。」「日本以外で『霊感商法』はなされていないので、世界中のどこの地域の研究者も日本の統一教会の活動を理解するのは困難なのである。」(p.128)と書いているように、同じ統一教会であっても日本と欧米ではそもそも活動のあり方が非常に異なっていることに気付いたのである。

 櫻井氏が本章の中で最も強調したいのは、日本統一教会の特殊性である。日本統一教会は世界でも類例のない特殊な任務を背負っており、それは「金のなる木」(p.156)という言葉に象徴されるように、韓国と世界における活動経費のほとんどを調達するという使命であった。このことの故に、極めて違法性の高い方法によって資金を稼ぐための特殊な組織形態が日本統一教会の特徴になってしまったのであり、これは韓国にも欧米諸国にも見られない日本統一教会の特殊事情であると言いたいわけである。

 一つには、こうした日本の特殊性を示すことによって、自分の発表が欧米の宗教社会学者たちに受け入れられなかったことに対して、留飲を下げたいという動機があったと思われる。またそれによって欧米の統一教会研究の成果を相対化し、その価値を引き下げるとともに、自らの研究を彼らの上に位置付けたいという動機も見て取れる。それは櫻井氏自身の「従来の欧米における統一教会研究は、負け犬や問題児としてホスト国で扱われた特殊な『カルト』教団の事例にすぎないのであり、そこから花形スターや金のなる木となった韓国や日本の事例を考察することは全く的を射ていない研究であることが明らかになったと思う。」(p.157)という言葉からも明らかであろう。櫻井氏の分析では、統一教会の世界宣教戦略の中で、韓国は「花形スター」、米国は「問題児」、日本は「金のなる木」、その他は「負け犬」と位置付けられている。要するに、欧米での統一教会研究は「問題児」と「負け犬」の研究にすぎないので、日本では役に立たないと言いたいわけである。

 櫻井氏が世界的な戦略の中に日本統一教会を位置付けて論じるもう一つの動機は、ある種のナショナリズムから来る義憤が含まれていると考えられる。日本人である櫻井氏としては、自称メシヤの韓国人によって設立された教団が日本で多くの信者を獲得し、彼らを極めて違法性の高い経済活動に専念させ、そうして得た資金のほとんどを日本のためには使わずに、韓国または米国で活動を展開するために吸い上げているという構図は我慢ならなかったのではないだろうか? さらには、そうした教祖ならびに韓国人幹部の命令に対して唯々諾々と従っている日本人信者たちに対しても、憐憫と義憤が半ばする感情を抱いていると思われる。櫻井氏の描く日本統一教会像は、韓国人幹部によって徹底的に搾取される可哀想な存在なのである。統一教会に対するこうした評価は、宗教社会学とは関係のない、一般社会から統一教会に対して向けられる批判と大差がない。統一教会は日本の国益に適わないから排除すべきであるという論理は、非常にシンプルなナショナリズムに基づいている。櫻井氏は社会学的な分析の体裁を取りつつも、こうした非常にシンプルなナショナリズムを動機として議論を展開しているということを、第4章全体の特徴として示しておきたい。

 さて、櫻井氏は統一教会の宣教戦略や教団運営を経営戦略論から考察する前に、従来の宗教社会学における教団発達論を教科書的に概説している。マックス・ウェーバー、リチャード・ニ-バー、ロバート・ベラー、トーマス・ルックマン等による古典的な類型論について触れた後に、彼はD・O・モバーグの五段階発達論、およびそれに依拠して日本の宗教団体を分析した森岡清美の教団発展モデル、さらに西山茂による「教団ライフコース論」を紹介しているが、西山以降はこうした議論が日本ではあまり進んでいないという。櫻井氏によれば、こうしたモデルの限界は、一国の壁を超えて異文化に宣教していくような宗教団体のあり方を、国内の研究だけではとらえきれなかったことにあるという。これを統一教会に端的に当てはめれば、日本統一教会がなぜ今のような姿になったのかは、日本国内の統一教会だけを観察していたのでは分からないということなのだ。

 櫻井氏が本章で採用しているのは、企業経営と教団運営の間に共通点を見いだして分析する、一種の「宗教市場モデル」である。それは、「当該国においてどのような宗教的ニーズがあり、どのような方法で特定の宗教文化を伝えていくのか、当該国の宗教文化との競合に負けずに、どのようにして宗教的ニッチを見いだしていくのかといった問題は、多国籍企業の市場戦略と酷似している。」(p.132)という言葉に端的に表現されている。すなわち、宗教が提供する内容を商品パッケージとしてとらえた場合に、まず宣教国の人々にどのような宗教的ニーズがあるかを分析し、マーケットにふさわしい売り方をしなければ発展しないということだ。

 同時に、そうしたニーズを持つマーケットに既に顧客をもっている既存の宗教団体が存在するはずだから、それらと競争しながら市場を開拓するには、既存の宗教にはない新しい魅力が存在しなければならない。ニッチとは通常、大企業がターゲットしないような小さな市場や、潜在的にはニーズがあるが、まだビジネスの対象として考えられていないような分野を意味する。既存の伝統宗教を大企業に例えれば、外国から宣教される新宗教は中小企業やベンチャービジネスに例えることができる。一般的に、ニッチ市場には大企業は収益が低いとの理由から手を出さないことが多いため、中小企業やベンチャービジネスがそこに参入し、確固たる地位を築くことができるといわれている。こうした市場原理から、新宗教の海外宣教を分析しようというのが櫻井氏の視点である。

 企業経営と教団運営には共通点と同時に相違点も多いことを認めつつも、櫻井氏が統一教会にこのような経営戦略論を当てはめる理由は、「統一教会がコングロマリットといって差し支えがない業態・組織形態を有している」(p.132)からであるという。コングロマリットとは、直接の関係を持たない多岐に渡る業種・業務に参入している企業体のことで、「複合企業」とも言われる。彼が統一教会をコングロマリットと規定する主な理由は、統一運動が実に多種多様な領域に関連団体をもっており、多角的な活動を行っているためだ。そのこと自体は正しいが、櫻井氏がこのコングロマリットの比喩をもって言わんとしていることの本質は、統一教会が純然たる宗教団体として存在しているのは欧米だけであり、韓国では多国籍企業として、日本では地下組織として存在しているということだ。筆者は彼のこうした主張に同意しないが、この点については次回以降で詳細に論じることにする。

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