実況:キリスト教講座40


自然神学と啓示神学(3)

実況:キリスト教講座挿入PPT40-1

この「福音主義神学」の大前提を受け入れてしまうと、どうして「原理が間違っている」という結論になってしまうのでしょうか? 誰かわかる人いますか?

答え:「被造世界の中に二性性相が普遍的共通の事実であるということを用いて、原理は神様の神性を導き出しているからです」

まさにその通りですね。創造原理第1章1節の中に神は二性性相であるという説明が出てくるわけですが、ローマ人への手紙1章20節などを引用しながら、被造世界の中にある普遍的な共通の事実を調べることによって神様を知ることができると言っています。そして被造世界を調べてみたら、陽性と陰性、性相と形状の二性性相があるということが分かったので、神様が二性性相だということが分かった、と言っていますね。これは被造物を観察することを通して神の性質が分かったという論理展開に、創造原理の第一章はなっているということです。このような原理講論の説明というのは、福音主義神学の大前提からすると、まさに何だということになるでしょうか? 「異教的」ということになるんです。すなわち、異教的神学、本当のキリスト教の伝統に立たない神学なので、統一原理は「本当のキリスト教とはかけ離れているものであり、極と極であることだけはよくわかった」という山崎浩子さんの結論になるわけですよ。

つまり、反対牧師の説得の中で福音主義神学の大前提を教えられて、「はあ、それが本当のキリスト教なんだ。だったら統一原理というのは創造原理の最初の説明のここから間違ってるんじゃないか。だから信じるに値しない。教会を離れましょう」という結論になったということなんですね。ですから、神学に対する知識というものが不足していると、この説明だけで原理は間違っていると思い込んで教会を離れてしまうということになるんです。

それでは皆さんは、私が原理講義風に説明したこの福音主義神学の大前提を受け入れますか? そもそも、神の啓示、福音、み言葉によってしか、神様は人間に理解されないということは、人間が努力して神様を求めるということが一切否定されているわけです。つまり、ここには人間の責任分担という考えは全く存在しないということになります。しかも、被造物を通して神を理解することはできなくて、あくまでみ言、啓示、福音によってしか理解できないということは、いわゆる「自然を通して神を知る」なんていうことはできないという結論になってしまいます。これは私たちの考えと全く相反する内容であるわけです。

まとめますと、この福音主義神学の大前提は、創造原理第一節「神の二性性相」の一番初めの説明を真っ向から否定する内容であるということが分かるわけであります。原理はローマ人への手紙1章20節にある「神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない」という聖句に基づいて、被造物を観察することによって神を知ろうとしています。しかし、こうした考え方は福音主義神学の大前提からすると、完全に否定されてしまいます。すなわち、「自然を通して神と出会う」などということは一切ないというわけです。それでは何を通して出会うのかというと、「聖書だけ!」というのが福音主義神学ということになるんですね。

これはたいへん極端な世界観でありまして、たとえばこういうことですよ。統一教会には「心霊復興」という伝統があってですね、まあ海に行くとか山に行くとか、自然に触れることを通して心霊が復興するから、神様に出会うということで、出かけて行ったりしますよね。そうするとそこで出会う自然が非常に美しいということで、「美しい被造物の中に神の愛を感じる」などと言えば、統一教会では「あなたもだいぶ神様の愛が分かってきましたね」とか「原理が分かってきましたね」ということで、肯定的に評価されるわけです。しかし、もし皆さんが福音派の教会に属していたとしたら、「心霊復興」という言葉はおそらくないと思いますけど、自然の中に出かけて行って、「ああ、自然の万物の中に神様の愛を感じる!」などと言ったりしたら、「あなた、それは異教的な考え方よ!」なんて言われることになってしまうわけです。

このように福音主義神学は、「自然を通して神と出会う」という考え方を否定する、とても極端な思想であるということが分かります。『福音主義神学概説』の35ページにしっかりと書いてあるんですが、「福音主義神学は、その基点において、啓示神学である。それによってすべての異教的神学(自然神学)が退けられる。」とあります。この「自然神学」とは何であるかというと、自然を観察することを通して、神様について類推したりとか、神様がどんな存在であるかということを語る神学のことを言うわけです。こういう神学は、福音主義の立場からすると、退けられなければならないということになります。

ハンフリート・ミューラー

ハンフリート・ミューラー

カール・バルト

カール・バルト

なぜこんな神学が出てきたのでしょうか? そもそもこの『福音主義神学概説』の著者ハンフリート・ミューラー(1925-2009)は旧東ドイツの神学者でありまして、かつてヒトラーのナチに対して抵抗したドイツ「告白教会」(Bekennende Kirche)の流れを汲む神学者です。「告白教会」とは、ナチス・ドイツの膨張政策に同調した第二次世界大戦前のドイツ・キリスト教会に反発して結成された組織です。このころのドイツのキリスト教会は、日本の戦前のクリスチャンたちのように、ナチスの政策に従う勢力が優勢でした。しかし、カール・バルトをはじめとする一部の聖職者たちは、礼拝すべきは神のみである(暗にヒトラーではないと指摘する)として、神に対する信仰を「告白する教会」を結成、ナチズムに同調しないことにしました。これが「告白教会」という名前の由来です。すなわち、ナチズムに同調しない、これと闘っていくという教会の伝統からこういう神学が生まれてきたわけです。

ということは、この神学が生まれてきた背後をたどってみると、まさに危機的状況といいますか、平時ではなく極端な状況の中で出現してきた神学であることが分かります。神学というのは、必ずその神学が出現するようになった社会的背景の影響を受けるわけですよ。ですから、こういう極端な状況の中で出現してきた神学というのはたいてい主張が極端になるんですね。そういう神学なんだということを理解して、必ずしもこれがキリスト教全般の立場を代表する普遍的な見解ではないのだということが分からないと、「これが正統なキリスト教だ」と言われてしまうと「ハイそうですか」と言うしかないということです。要するに、これは、特殊な状況で生れた神学であり、必ずしもすべてのキリスト教神学に通ずるような普遍的見解ではありません。ですから山崎さんの場合には、キリスト教神学の幅広い理解がなかったために、この説明だけを聞いて、統一原理は間違いだと思ってしまったということになります。

たとえ神学の知識がなかったとしても、この文面だけから読み取れることを指摘すると、まずこの「異教的」という表現はとても侮蔑的な言葉ですね。この「異教」という言葉の中には、他宗教の価値をまったく認めない独善的匂いがするわけです。キリスト教というのはある意味でとても独善的で排他的な宗教でありまして、自分の宗教だけが神の啓示をいただいているのであり、他の宗教はすべて迷信か悪魔のささやきに過ぎない、というぐらいに思っているんです。ですから、他宗教の中に真理を見いだすなんていう思想は基本的にキリスト教の中にありません。イスラム教のコーランの中にも、仏教の経典の中にも真理は一切ないと思っているんです。聖書だけに神様は啓示されたと思っているんです。だから「異教」といってキリスト教以外の宗教を全部蔑むわけですよ。「これはちょっと傲慢なんじゃないんですか? 統一教会ではそんなふうには考えず、他の宗教にも真理の一部があると考えていますよ。」と批判しなければなりません。

それから、福音主義神学では、人間から神を知ろうとする努力を否定しています。そこには人間の責任分担という概念は存在しません。啓示というのは上から一方的に来るものですから、この啓示を極端に強調して、人間が理性を使って考えることを否定する考え方です。これはともすれば盲信や狂信に陥る危険性をはらんだ思想ですね。すなわち、理性の否定という問題があるということです。

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