実況:キリスト教講座39


自然神学と啓示神学(2)

 それでは、『週刊文春』に掲載された、山崎浩子さんの脱会手記の中から、『原理講論』の間違いに気づいたとされる部分を読んでみましょう。

「そして、いくつかの話のあとだった。『福音主義神学概説』(H・ミューラー)のたった数行の文を見せられたとき、私は、体の中がカーッと熱くなったのを感じた。『統一教会は、キリスト教を統一するなんて言っているけど、これでは、そんなことは絶対にできない。キリスト教における最大の罪を犯しているんじゃないだろうか』。私は、その本を一晩中読み続けた。むずかしい本だった。けれど、統一教会の信仰は、本当のキリスト教とはかけ離れているものであり、極と極であることだけはよくわかった」(『週刊文春』1993年4月29日号、43ページ)

 このような表現で書かれているわけです。山崎さんが統一教会の信仰を棄てるようになった理由は、お姉さんや親族との関係も含めて、実際にはいっぱいあるのかもしれません。しかし、少なくとも神学的・教義的に山崎さんの信仰を破壊したのは、この『福音主義神学概説』という本があって、そこにわずか数行の文章があって、その文章を見せられて説得されたときに、なにか「体の中がカーッと熱くなった」というんですから、いわゆる宗教体験のようなものをして、「あー、原理は間違いだったんだ!」ということに気付いて、教会を去って行ったということが、この文章から分かるわけです。それでは、皆さんはこの手記の中に出てくる、ハンフリート・ミューラーという人の書いた『福音主義神学概説』という本の数行の文章というのは、一体どんな文章なんだろうか、ということに興味がありませんか? ぜひ読んでみたいと思いませんか?(笑)

 ということで、皆さんとこれからその文章を味わいたいんですが、もしかしたらそれを読んでいるうちに皆さんの中で体がカーッと熱くなって、「原理は間違いだった!」という悟りを開く人がこの中から出ないとも限りませんので、(爆笑)ぜひ皆さん、信仰を失わないように、決意してこの問題の部分というのを一緒に読んでいただきたいと思います。まず、aからです。

「a.福音主義神学は、神が人間を欲し、求め、見出し給うことによってご自身を認識させるべく与え給うということに信頼しているが、しかし異教的神学は、人間が神を欲し、求め、見出すことによって神を発見するということを頼りにしているからである。 」

 どうでしょうか? 体がカーッと熱くなって、「原理は間違っている!」と悟った方はいますか? 体が熱くなる前にまず、何を言っているのかよく分かんないんじゃないでしょうか?(爆笑)この文章を読んで明確に意味が分かったという人いますか? 一人も手が上がりませんね。21修で聞くと、だいたい30人くらいの中で1人か2人くらい手が上がりましたね。それ以外はまったく理解できないんです。とにかく、こういう文章なんですね。私がキリスト教講座などを講義しますと、よく「神学を勉強したくなりました。何か神学の本で良いのがあれば推薦してください」と言われるんですが、私はいきなり神学そのものの本を読みなさいと推薦しないんです。なぜかと言うと、こういう文章が一冊の本の最初から最後までずーっと書いてあるとしたら、それを読むのがいかに苦痛かということは皆さんも分かると思います。そもそも外国語から翻訳してありますので、こういう感じの文章になります。これがaなんですが、実はbもあるんです。

「b.福音主義神学は、神が神からしてのみ、すなわち神ご自身のみ言葉からしてのみ認識され得るということ、それゆえまた神がご自身を人間に啓示し給うということに基づいているが、異教的神学は、神が創造から(・・・現に存在しているものから)認識され得ると考え、それゆえに人間は神を発見し得ると考えているからである。」(『福音主義神学概説』35~36ページ)

 これもまあ、日本語であるということは分かるけれども、ほぼ訳が分かんないという感じの文章ですね。はたして山崎浩子さんはこれが理解できたんでしょうか? まあ、理解できたから教会を離れたということになるんでしょうけれども、皆さんはどうでしょうか? 理解できなければ体がカーッと熱くなることもないですね。じゃあ、この難しい文章をどう理解しましょうか。これは非常に不親切な文章ですね。これだけ長い文章なのに途中に丸が一つもないですね。(笑)

 じゃあ、私は理解できるんでしょうか? この難解な文章を私は正確に理解できるのかといいますと、一応、私は統一神学校というところを出ておりまして、キリスト教神学を学んでおりますので、この二つの文章が何を言わんとしているのかは分かるつもりでございます。そこでこれから、これらは福音主義神学の大前提として述べられている内容なんですが、文章を読んだだけではまったく意味の分からないこのaとbの内容を、原理講義風に図示して、皆様にご説明してみたいと思います。だいたい統一教会の方々は、論理でとらえる左脳型の方よりもイメージでとらえる右脳型の方の方が多いので、図で書いて初めて分かるという方が多いと思います。

実況:キリスト教講座挿入PPT39-1

 まず、aの部分が何を言っているのかというと、神様がいて、人間がいるとすると、もし人間が神様を理解することができるとするならば、神様の方が人間を欲し、求めて、神様の方から人間に対してアプローチしてくるときのみ、人間は神様について何かを知り得るんだということが言いたいのです。それは結局、上から下への動き以外にはあり得ないということです。この上から下への動きというのは、神様が人間に啓示を下さるとか、福音を伝えるとか、み言を語るとか、とにかく神様の方から人間に対して「私はこういう存在である」ということを教えてくれなければ、人間は神様について何も、一切分からないということが言いたいんです。

 これとは逆の方向、すなわち人間の方から神を求める、例えば人間が一生懸命考えて、理性をはたらかせて神様について探究したり、あるいはいろんな修行をしたりして、その結果として人間の方から神を認識するとか、発見するとかいうことはあり得ませんよと。もしそういうことがあると主張している神学があるとするならば、それは異教的神学であって、本当のキリスト教的神学ではありませんよ、ということが言いたいのです。これがおよそaの文章が言いたい内容ということになります。

 じゃあ、bの文章が何を意味するのかというと、ここに神様と人間と被造物という三つの存在があって、もし神学において人間が神様を認識するとか知るということがあり得るとするならば、「神が神からしてのみ、すなわち神ご自身のみ言葉からしてのみ」人間は神様について理解することができる、と主張しているわけです。すなわち、神様が「私はこういう存在である」ということを、み言、啓示、福音、どういう言い方をしたとしても同じですが、それを通して人間に示してくださることによって、人間は神を理解できるんだということです。これはすなわち、聖書に記された神のみ言によってしか、人間は神様について何も知ることができないということです。

 それ以外の方法、これはすなわち被造物ですね。この被造物を通して人間が神様について認識したり発見したりするというようなことは、基本的にバツであって、あり得ません。もしそれがあり得ると主張している神学があるとするならば、それは異教的神学であって、本当の意味でのキリスト教的神学ではありませんよと。これが、あの長々と書いてあったbの文章が基本的に言いたい内容であります。

 これが「福音主義神学」というものの大前提ですよということが、このハンフリート・ミューラーという人の書いた本の冒頭部分に書いてあるわけです。これで皆さんは福音主義神学というものの基礎をマスターしたことになります。このように図で示すと、だいたい何が言いたいのかということは理解できたと思いますが、それではその結果として、どうして山崎さんは「あー、原理が間違っている!」と思って、教会を離れてしまったんでしょうか?

カテゴリー: 実況:キリスト教講座 パーマリンク