実況:キリスト教講座37


統一原理の神観について(11)

実況:キリスト教講座挿入PPT37-1

 以上をまとめますとこういう図になります。初めに説明したように、統一原理においては神様は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であり、その似姿として人間は心と体が一つとなり、個性完成をするわけです。さらに神様は本陽性と本陰性の中和的主体であり、その似姿として人間は男と女が一つとなり、子女繁殖をするわけです。さらに神様は被造世界に対しては性相的男性格主体であり、その似姿として人間は万物を主管します。このように、神観と人間観というものが完全に相似形になっていて、三大祝福を完成させることを通して人間は神の似姿になっていくという、非常に理路整然とした骨格が統一原理にはあるわけです。ところが、既存の神学はどこかが欠けています。

 伝統的な神学においては、本性相と本形状のうちの形状部分が欠落している、性相だけの神様というイメージを抱いています。また本陽性と本陰性においては、本陰性が欠落している男としての神様、男性的性質しか持たない神様ということになります。そして神様と被造世界との関係においては、神が被造世界を一方的に愛するだけで、被造世界から神が影響を受けるということはあり得ないという、一方的な関係になります。すなわち、すべてにおいて伝統的な神学は片手落ちになっているのだということです。

 このように既存のキリスト教神学というのはどこか欠陥があるので、「これはおかしいんじゃないですか?」ということで、現代神学はいろんなことを主張いたします。たとえばフェミニスト神学は、「神様に女性としての性質がないのはおかしいでしょう」と噛みついて、神学における男女平等を叫んで、神様には女性的性質もあると主張したわけです。統一原理の場合には、神様は陽陰の二性性相であるというわけですから、男女両方の性質があることをきちんと説いているということになります。

 さらに、プロセス神学というものが現れて、神に可変的な部分(統一原理の本形状に当たる)がないのはおかしいとか、神と被造世界の関係が一方通行であるのはおかしいとかいうことを、古典的で伝統的な神学の課題として突き付けていったわけです。その答えもやはり統一原理の中にあるわけでありまして、神様はもともと性相と形状の二性性相であるということ、そして神様と被造世界との関係は二性性相的関係であって、よく授けよく受けるというダイナミックな授受作用の関係であるということを説いているわけです。

 こうしてみると、20世紀に入っていろいろな現代神学が出てきて、既存のキリスト教神学に対して「おかしいじゃないか」と言って挑戦した内容の中には、統一原理を支持したり、証ししたりするようなものが結構多いわけです。これがなにを意味しているかと言うと、原理というのは神様の全体像を曲げることなく、歪めることなく、欠けることなくとらえた、神の最終的な啓示であるわけです。人間が神学的に思索して努力すると、それによって既存のキリスト教神学の問題点を克服して、一歩原理に近づくということになるわけです。ですから非常に乱暴な言い方をすれば、現代神学というものは統一原理に到達するために、それを目指して進歩してきたと理解することができるわけです。

 伝統的なキリスト教神学からすると、「原理の教えは異端だ」とか言うわけでありますが、現代神学を勉強すれば、かえって既存のキリスト教神学には欠陥があって、それを克服した到達点に、実は原理という素晴らしい思想があるんだということが見えてくるわけです。神学を勉強することによって、原理というものが非常に先進的であり、逆にあまりに進み過ぎているがゆえに、既存の神学はそれに追いつけずに異端視しているのだということが分かってきます。このように、神学を勉強すれば原理の素晴らしさが分かってくるということを、私の著書『神学論争と統一原理の世界』の中で説明しておりますので、神学に関心のある方は是非読んでみてください。

 だいたい以上を持ちまして3コマ目の「統一原理の神観」に関する講義を終わりますが、何か質問があればお答えしたいと思います。

質問①:キリスト教の神学では神様を「父」として男性格でとらえていて、原理でもまた被造世界に対しては男性格主体としていますね。でも一方で、神は父母であると教えています。お祈りの中では「お父様」と呼んでいるわけですが、それはキリスト教的な考えを引き継いでいると考えてよいんでしょうか? 祈るときには「父母様」と呼んだ方がいいのでしょうか?(注:この質問は2012年の講義で出されたもので、神様の呼称が正式に「天の父母様」に変更される以前に出されたものです。)

回答:まあ、伝統的にキリスト教では神様を「天の父」と呼んできたので、その伝統を相続しているということですよね。より原理に忠実に言えば、「天のお父様」というよりは、「天の父母様」と呼んで祈ったほうが、より全体像をとらえているということになります。英語では普通はHeavenly Fatherと呼んで祈るんですけれども、Heavenly Parentsと呼んで祈る人もいるわけです。ですから表現的に、もし自分にとって神様が「天の父」というよりは「天の父母」という方がしっくり来るし、その方が二性性相の神様を表していて良いと思うのであれば、「天の父母様」と呼んでよいと思います。地上に真の父母様がいて、天にも父母様がいるという方が、自分にとって祈りの対象として相応しいと思えば、そう呼んでいいということです。統一教会はキリスト教の伝統というものを相続しているので、初期の統一教会においてはかなりその伝統を色濃く反映していました。祈るときに、初期のころは「主の御名」によって祈っていたわけです。それが「真の父母の御名」によって祈るようになり、そのうち「祝福中心家庭〇〇の名」によって祈るようになり、「アーメン」から「アージュ」になってきたわけです。やはり、キリスト教の伝統を相続しているので、それをそのまま受け継いだ世界はあるわけです。ただ、統一教会が発展して、原理観が確立されていけば、少しずつ変わっていくものだと思います。ですから、二性性相の神という観点からすれば、「天のお父様」というよりは、「天の父母様」といった方が近いのかもしれません。他に質問ありますか?

質問②:ギリシア哲学の話をされましたが、プラトンやアリストテレスなどのギリシア哲学者も、哲学を探求していく中で、何か本質的な神観をとらえていったということなんでしょうか?

回答:そういうことですね。原理の中に「メシヤ降臨準備時代」という概念があって、これはイエス様が生まれる前の、準備の400年くらいの時代を指しています。カール・ヤスパースという人も「歴史の枢軸期」ということを言っていて、イエス様が生まれる600年くらい前からいろんな思想が洋の東西を問わず世界中で勃興した時期があります。このころに、お釈迦様や孔子様が東洋で生まれているし、西洋ではヘレニズム文明が発達して、ギリシアではソクラテス、プラトン、アリストテレスなどが生まれて、哲学的な思索がものすごく深まっていくわけです。このように世界中に同時多発的にさまざまな思想が出現したということは、やがてイエス様を迎えたときに、世界の人々がイエス様の教えを受け入れることができるように、各地方に神様からさまざまなインスピレーションが与えられて、宗教や哲学が発展したということなんですね。ですからそれらは言ってみれば、イエス様が説く内容を先駆けて一部ずつ世界中に啓示したものであるということになるわけです。このヘレニズムというのは、原理講論の中ではローマ文明がイエス様を迎えるための重要な基盤であったと言っているので、ギリシア・ローマの文化的伝統であるヘレニズムはメシヤを迎えるための重要な基盤の一つであったことは間違いありません。ですから、その中にも真理の一部が啓示されていたということです。プラトンやアリストテレスも全面的に間違っていたというわけではなくて、論理的に思索するという面においては非常に優れた哲学的功績を残したわけです。本当はイエス様が十字架にかかって亡くならずに、生きて世界をまとめていれば、イエス様はローマに行って、直接み言葉を語って指導することによって、ヘレニズム文明を整理し、それを基盤として地上天国を作っていくべきであったわけです。ところがイエス様が亡くなってしまったので、ユダヤ教的な伝統が主流になることができずに、ヘレニズム的なものを主流としてキリスト教神学が形成されてしまったことによって、大きく神観を歪めるようになってしまったのだということです。ですからもともとはイエス様のために準備されていたギリシア哲学であり、ヘレニズム文明であったわけですが、正しく出会うことができなかったために、いわば逆主管するような形でキリスト教神学に影響を与えてしまったのだと理解したらよいと思います。

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