実況:キリスト教講座31


統一原理の神観について(5)

 さて、キリスト教がローマ世界に広がっていく過程においては、さらに神様が無形であること、そして物質とは何のかかわりもない存在であることを強調する思想が、キリスト教神学に影響を与えるようになります。これが「グーノシス主義」というものの影響であります。

 グノーシス主義とは1世紀に生まれ、3世紀から4世紀にかけて地中海世界で勢力を持った古代の宗教思想のことです。「グノーシス」という言葉はギリシア語で、知恵とか知識を意味します。グノーシス主義の基本的な考え方が何であるかと言えば、真の神は完全に霊的な存在であり、邪悪な物質世界を作ったのは真の神ではなく、「デミウルゴス」と呼ばれる邪悪な神である、というものです。さて、当時キリスト教を信じる者の中にこのグノーシス的な考え方に影響を受ける者が出てくるわけです。そうするとどうなるかというと、旧約聖書には天地創造の神が出てきますよね。真の神はまったく霊的な存在であって物質を創ったんじゃないということはであれば、旧約聖書に出てくる神は本当の神様じゃないという考え方になってしまうわけです。ですから、グノーシス主義者は旧約聖書を否定するようになり、彼らの聖典には旧約聖書は含まれませんでした。

 彼らは本当に霊的指向が強い人たちであって、人間の本質は霊でり、肉体は邪悪なものであると考えました。そして人間の霊は邪悪な肉体に幽閉されており、霊的本性を忘れていると考えたわけです。つまり、人間はもともと霊としてどこかの世界に存在していたわけですが、それがこの地上に生まれるということは、肉体という刑務所に閉じ込められている状態だと考えたわけです。

 これがキリスト教信仰と結びついて、本来の神的領域に戻るための「知恵」をもたらし、救済する存在がキリストであると説く異端的信仰が増えていったわけです。グノーシス主義とキリスト教が結びつくとどうなるかというと、とにかく物質を蔑視して、物質は悪なるものだということになるわけでありますから、キリストもやっぱり本当に意味での体はなかったんだという結論になっちゃうわけです。キリストは本来、この世の存在ではないため、この世に現れたキリストは真の肉体を持った人間ではなく、単なる幻に過ぎなかったんだという、「仮現論」というとても危険な考え方に陥るわけであります。

 物質を創造した旧約聖書の神を否定し、イエスが人間であることを否定したので、この考えは間違っているということで、グノーシス主義は正統教会から異端として断罪されるようになりました。エイレナイオスをはじめとする古代の教父たちは、グノーシス主義と闘いながらその間違いを批判したのが主な業績であったわけです。キリスト教の「使徒信条」の中にわざわざ「おとめマリアから生まれ」という言葉が入っているのは、こういうグノーシス的な、幻としてきたキリストではなくて、この地上に女性のお腹から本当に生まれた人間なんだということを告白しないと、本当のクリスチャンじゃないということを意味していたわけです。つまり、このグノーシス主義とは違いますよという意味で、「おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて」という言葉で、イエスは真の人間だったのだということを表現しようとしたわけです。これはグノーシス主義との戦いの中で出てきたわけです。

 キリスト教会史ではこのグノーシス主義というのはとても危険な考え方で、初期の正統教会はこれと戦って、異端として排斥することによって正統信仰を守ったと言われております。しかしそれでは、グノーシス主義の影響をそれほど完全に排除して、こうした霊的指向性というものを否定できたのかというと、実はそうではなくて、聖書の中にもグノーシス的な影響があったんではないかと、聖書を研究する学者などは指摘しております。

 特に新約聖書の中でこのグノーシス的な匂いのするものの代表作としては、パウロの手紙やヨハネによる福音書が挙げられ、これらはグノーシス主義の影響を受けていたと主張する学者もいます。すなわち、グノーシスのキーワードである「霊と肉」の鋭い対比というテーマがパウロの手紙にはよく出てきます。「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。」(ローマ人への手紙8:6-9)というように、霊と肉が戦っているんだという話をパウロはものすごくたくさんするわけです。パウロの思想の中には、霊が善で肉が悪であるという傾向がかなり明確にあります。これはちょっとグノーシスっぽいなということで、聖書学者の中には、パウロの思想はグノーシス的な影響を受けていたんではないかという人もいます。

 ヨハネの福音書の中には「光と闇」という対比がよく出てきます。キリストは光であり、この世は闇であったというわけです。実はグノーシス主義も「光と闇」という言葉がすごく好きです。このように霊を重要視して肉を蔑視する思想が、特にパウロの手紙やヨハネの福音書の中にあったんではないかとする説もあるわけです。これが本当であるかどうかはよく分かりません。しかし、これらがグノーシスの影響であったかどうかは別としても、実際に新約聖書をよく読んでみれば、そこには肉体や物資に対するネガティブな描写があるのは事実です。ですから新約聖書を読めば読むほど、「霊は良いもの、肉は罪深いもの」ということがたくさん書かれていることに気が付くわけであります。これが本然の創造原理的な人間観なのかと言えば、そうではないだろうということです。

 このような価値観をもったキリスト教でありますから、そこにギリシア的世界観というものが重なることにより、さらに拍車がかかっていくということになります。それでは、そのギリシア的世界観とはどのようなものだったのでしょうか?

「当時、ギリシアの哲学者はみな貴族であり、肉体労働は奴隷に任せていたから働かなくてよかった。だから彼らはその暇な時間を生涯哲学的思考に費やして、あの偉大な体系を作り上げたのである。彼らは一生の間、観念の世界に住んでいたので、純粋に観念的なものだけが永遠かつ本質的なもので、物質的なものは千変万化する刹那的かつ非本質的なものであると考えていた。この物質に対する蔑視がキリスト教にも受け継がれたために、神は全く非物質的なものと考えられるようになったのである。」(『神学論争と統一原理の世界』p.40)

実況:キリスト教講座挿入PPT31-1

 ギリシア的世界観においては、世界は英知界と物質界という二つの世界から成り立っています。英知界というのは、イデアの世界であって、観念の世界です。そして物質界というのは私たちの肉体が住んでいる世界ということになります。これはほぼ霊と肉という二つの次元に該当しています。人間の心は英知界に住むものであって、肉体は劣った物質界に住んでいます。そして心(霊、魂)が体の中に幽閉されているというのがギリシア的な世界観です。この辺はグノーシス主義によく似ていますね。

 ギリシア的世界観においては、基本的に英知界の存在である霊とか心とかいうものが善であり、より優れたものであるのに対して、物質とか、肉とか、体といったものはより悪であり、より劣った、非本質的で刹那的なものであると考えます。ですから、そこには物質を見下すという特徴があるわけです。

 このようなギリシア的世界観において神様がどのように表現されるかというと、神様は至高の存在でありますから、英知界に存在しなければならず、およそ罪深い物質とか肉体とは関係のない存在として表現されるわけです。これは哲学的な用語では、「純粋形相」と表現されています。この「形相」という言葉は、ギリシア哲学の用語で、ギリシア語では「エイドス」と言います。これは統一原理で言うところの、「性相と形状の二性性相」の「性相」によく似た概念です。厳密にいうとちょっと違うんですが、いわゆる精神と物質というような二元論的な枠組みにおいては、「形相」は統一原理でいうところの「性相」とほぼ同じ意味であるわけです。

 したがって、彼らが「神は純粋形相である」というとき、統一原理風に言えば、性相だけがあって形状がない神様ということになります。ですから、本性相と本形状の二性性相の中和的主体ではなくて、本性相しかない神様というようなものを彼らは考えていたことになります。なぜそう考えたかと言えば、神様は永遠不変でなければならないからというわけです。つまり、「形あるものいつかは壊れる」というじゃないですか。ここにコップがありますね。ガラスでできています。ではこの形あるコップに永遠性がありますか? 落とせば割れちゃうわけですよ。ということは、「形があるから永遠性がないんだ、神様が永遠であるためには形があってははならない。神様は無形で、物質的なものとは一切関係がない、永遠不変の無形の存在でなくてはならない」という風に、いかにも哲学者らしく考えたというわけです。
 

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