実況:キリスト教講座15


キリスト教と日本人(3)

 イエズス会の宣教師は、1579年にはキリスト教に改宗した者たちの本拠地として長崎の街を建てることに成功し、既に10万人の日本人改宗者がいると主張しました。そして1587年には20万人の改宗者と240の教会が報告されたということですから、すごい勢いで増えているわけです。日本のキリスト教は九州から始まりました。九州を中心に、多くの切支丹大名が出現しました。大村純忠、大友宗麟、有馬晴信といった人々です。ですから、当時キリシタンになった人々は必ずしも庶民だけではなかったわけです。武士とか大名などの指導者階級もキリスト教の信仰を受け入れていたわけです。

大友宗麟

大友宗麟


有馬晴信

有馬晴信

 日本のキリシタン人口の最盛期は1600年ごろで、そのころには約60万人のキリシタンがいたと言われております。これが日本の人口に比べてどのくらいの数かというと、当時の日本の人口は約2500万人と言われておりますので、総人口の2.4%ということになります。人口の2.4%がキリスト教徒になったということは、実は驚くべきことです。なぜなら、現在のクリスチャン人口は日本の総人口の1%以下だからです。ということは、キリシタン時代に人口の2.4%に到達していたということは、かなりの宣教上の成功を短時間で成し遂げたと評価することができます。では、どうしてキリスト教は躍進したのでしょうか? キリシタン時代にキリスト教が躍進した理由としては、以下のようなものが挙げられます。

 まず、有力なキリシタン大名が宣教を支援し、保護したということです。当時は戦国時代でありますから、統一政権というものがありませんでした。ですから、大名たちが自分の領地に対して全面的な責任をもっていたわけです。とういうことは、その大名さえ許可すればその地で自由に宣教できたわけです。このイエズス会の宣教師たちは非常に賢い人々で、戦略的に動いたわけです。彼らはまず初めに、実質的な権力を持っている大名のところに挨拶に行ったんですね。「私たちは西洋から来た宣教師です。ここで布教する許可を取りたいのですが」と言って、大名がそれに対して許可を出したわけです。その公認の下で宣教をしたわけです。

 なぜ大名たちは宣教を許可したかというと、それは南蛮貿易の利益が大名にとって非常に魅力的だったからです。これは世俗的な理由ではありますが、そういう強みを持っていたわけです。つまり、スペインやポルトガルからやってきて、西洋の珍しい文物を見せると大名たちはすごく喜ぶわけですね。特に戦国時代ですから、鉄砲に関心を持ちました。そして、それが彼らの利益になりますよと言ったわけです。この当時の宣教師というのは貿易の船に乗ってやってきて、貿易と宣教はセットになっていたわけです。貿易から来る利益というのは大名にとって非常に魅力的だったので、それとセットになっているキリスト教の宣教は、「どうぞ自由にやってください」というような関係になったわけです。

 そして中には自身もキリスト教に改宗するような大名が出てくるようになります。戦国時代の切支丹大名にとってキリスト教の神は、戦に勝つための守り神のようなものでした。それまでは神道の神社にお参りして戦に勝つことを祈願したわけですが、それがキリスト教の神にとってかわったような感じです。このように大名がキリシタンになるとどうなるかというと、領主が改宗することによって領民が集団入信するケースが出てくるわけです。すなわち、お殿様が信者になったので、その家臣も全員キリシタンになれということです。ということは、実際にはキリスト教の内面をあまり理解せずに信徒になった者もかなりたくさんいたということになりますが、それが一つの文化になり伝統になれば、その中で信仰が育っていくということもあります。

 当時は戦国時代の末期で、織田信長がまさに天下を統一しようという時期でした。ですから織田信長がキリスト教を保護したということも、国家主権からの迫害がなかったということですから、キリスト教にとって大変有利な材料でした。織田信長がキリスト教を保護した動機は、やはり鉄砲などの南蛮貿易の利益にあったということですから、世俗的な動機ということになります。また、仏教勢力に対する制圧という目論見も織田信長にはあったようです。実は当時、「僧兵」というのがありまして、お寺が軍隊を持っていたわけですね。比叡山延暦寺などは非常に大きなお寺の軍隊を持っていました。それが信長の言うことを聞かないということで、信長の怒りを買っていました。それに対する対抗勢力としてキリスト教を保護したという側面もあります。

 加えて、イエズス会による「適応主義」の実践もあったので、日本の土着の文化とあまり摩擦を起こさずに宣教することができたというのも、飛躍することができた理由だということになります。そしてより内的には、戦国時代の混乱の中で、既存の仏教勢力は宗教的生命を失っており、人々は精神的な救済を求めていたという側面があります。このとき、ずーっと世は戦国時代であります。ということは戦乱に明け暮れていて、人々の心は荒れて飢え乾いていたんですね。そういう人々の悩みや苦しみに対して仏教が救いをもたらしていたかというと、形骸化していた仏教は、救いをもたらしていなかった。そこにキリスト教という新しい宗教がやってきて、天国の理想を説けば、人々の心がそこに吸い付けられていったということになるわけです。当時の人々の目には、仏教の僧侶の自堕落な生活に比べて、キリスト教の宣教師の禁欲的な姿は大変素晴らしく映ったわけです。

 さらに、既存の仏教の教えの中に「地獄と極楽」という来世観があったんですね。キリスト教の教えにも「地獄と天国」というのがありますから、来世に対する考え方が非常によく似ていたということも、仏教を土台としてキリスト教を理解する上で役立ったということがあるんだろうと思います。こういうようなことで、初期のキリスト教は大名からも庶民からも多くの支持を受けて飛躍的に伸びて行くことになります。

 そんな中で、日本からキリスト教の歴史上とても重要な使節団がヨーロッパに送られます。これが「天正遣欧少年使節」と呼ばれるものです。九州のキリシタン大名である大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として、4名からなる少年使節団が、日本からローマへ派遣されました。ですから、驚くべきことに当時ローマまで行っているわけです。これはイエズス会のヴァリニャーノという指導者の発案によるもので、大きく二つの目的がありました。一つ目の目的は、ローマ教皇とスペイン・ポルトガル両王に日本宣教の経済的・精神的援助を依頼するために、彼らを送ったということです。どういう意味かというと、「自分たちは日本宣教を始めました。一生懸命伝道して、こういう若いキリシタンの二世たちが生まれて、これが日本宣教の実績でございます。どうぞご覧ください」ということで、国王やローマ教皇に見せるわけです。そして、「だからお金ちょうだいね」ということなんですね。日本宣教の実績を示すためにローマに送ったというのが第一の目的です。

 二つ目の目的は、日本人にヨーロッパのキリスト教世界を見聞・体験させることによって、帰国後にその栄光と偉大さを少年たち自ら語らせることによって、布教に役立てたいという思惑があったわけです。つまり、本場ヨーロッパのキリスト教を見せつけたわけです。日本においてはキリスト教はまだ少数派の宗教でしたから、ローマにおける偉大なキリスト教文明を見せつけて、西洋文明の偉大さを見せつければ、この4人は完全に感化されて、キリスト教の証し人となって、その後の日本の宣教において大活躍するだろうということで、将来の日本のキリスト教を背負って立つリーダーとしてこの4人を育成したということです。そういう意図があって、わざわざローマにまで莫大なお金をかけて送ったということですね。

 この使節は、当時「セミナリヨ」と呼ばれていたキリスト教の学校で、多くの武士の子弟たち、いわゆる信仰二世たちが学んでいたわけですが、彼らの中から優秀な人が選ばれました。

天正遣欧少年使節

天正遣欧少年使節

 これが4人の絵ですが、左上が千々石ミゲル(正使)、右上が伊東マンショ(正使)、左下が中浦ジュリアン(副使)、右下が原マルチノ(副使)です。

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