実況:キリスト教講座27


統一原理の神観について(1)

 それでは午後の講義に入ってまります。お昼を食べて、血液が胃袋の方に行きますと、どうしてもあるものに襲われる人が出てきてしまいます。午後から2コマほどは、いよいよ神学の内容に少し入っていこうと思います。神学と言うと、何か難しい、自分にはとても理解できないようなことを語るんじゃないかと、いまから恐れている人もいるかもしれませんが、できるだけわかりやすく話そうと思います。

 神学というのは私たちの信仰生活と関係のない空論を述べているのではなくて、私たちの信仰のあり方を学問的に表現するとどうなるかということなのであり、噛み砕いてよく理解していくと、実はとても大事なテーマなんだなということが分かるようにお話をしたいと思います。

神学論争と統一原理の世界

 午前中、『神学論争と統一原理の世界』という本を紹介しましたが、私が神学校を卒業して、統一原理と普通のキリスト教の神学がどのように違っているのかということを、神様についてとか、罪についてとか、人間についてとか、終末についてとか、キリストについてといったように、キリスト教神学の主なテーマに沿って、比較して書いたのがこの本です。きょう一日で、その話を全部する時間はとうていないわけです。キリスト教と原理を本格的に比較したいと思うならば、皆さんも神学校に行くしかないということでありまして、きょうはそのさわりの部分の、とても重要なところを2つポイントを挙げてお話ししたいと思います。

 一つは、やっぱり神様ですね。神観、すなわち神様をどう理解するかということが、統一原理とキリスト教においてはかなり違っているわけです。それではどう違っているのか、どのように神観が違うのかということについて、少しまとめてお話をしたいと思います。

 よく21修などでは、このところで皆さんの神観をひとことで表現してくださいといって、何人かの答えを聞くのですが、典型的な答えは「愛の神様」とか、「心情の神様」とか、「親なる神様」とか、「悲しみの神様」とか、修練会の講義の中で述べられている神様の概念がたくさん出て来ます。

 そうした自分なりの神様の理解というのはいいんですが、神学的な方法論において、統一原理において神観をどう理解しているかを表現するときに、この表現を使えば最も包括的に分かるという表現が何であるかというと、『原理講論』の中に出てくる「神の属性」に関する部分であるわけです。これは創造原理の第1章1節に出てきます。

実況:キリスト教講座挿入PPT27-1

「神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、被造世界に対しては、性相的男性格主体としていまし給う。」

 これはいわゆる「原理試験」の出題率ナンバーワンの問題ですね。私が学生だったころから原理試験でこれがよく出てきましたが、出題の仕方として、「神の定義をかけ」という問題が出て、この通りに書くと満点だったわけです。しかし、後に神学を勉強して分かったことは、「神の定義」という表現自体は、あまりよろしくないということです。神の定義という言葉は、神学的には良い表現とは言えないですね。なぜかと言うと、神様はそもそも定義されるものではないです。

 実際、定義されるものというのは、複数存在しないと定義できないんです。たとえば私、魚谷俊輔というのは個人ですけれども、個人を定義することはできないですね。「人間とは何か?」というと、たくさん人間がいるから、その中の共通の属性を抽出して、「人間とはこれこれこういう存在である」と定義するわけです。宗教がいっぱいあるから「宗教とは何か」と定義するわけです。しかし、神様がいっぱいいて、「神様とは何か」ということを定義するわけではないでしょ? 多神教ならともかく、われわれの信じている神様は唯一神であるわけですから。ですから、「神の定義」という言い方自体がおかしいわけです。ですから、「神の属性」といった方が神学的には正しいわけです。

 この部分が、統一原理の神観を理論的に表現した内容であるわけですが、問題は何かというと、普通の日本人でこれを聞いてパッと理解できる人はまずいないということですね。とても抽象的で難しい表現なわけです。ですから伝道対象者に対して、「神様ってどんな存在ですか?」と聞かれて、「それはね、本性相と本形状の二性性相の・・・」と、これをいきなり言う人はまずいないだろうと思います。それくらい、非常に抽象的で哲学的な表現なわけです。ですから、これをどう理解するかということでありますが、これを図示するとこんな感じになります。

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 この「本性相と本形状の二性性相の中和的主体」というのは、神様という一つの存在の中に、本性相と本形状という属性があって、その間に授受作用が行われて渾然一体となっている存在だということです。「本性相的男性と本形状的女性」というのは言い換えれば「本陽性と本陰性」ということになりまして、この二性性相の間にも授受作用があって、渾然一体となって中和している存在だということです。三番目の「被造世界に対しては、性相的男性格主体」というのは、神と被造世界の関係性について述べているわけでありまして、神様が性相的男性格主体であるとすれば、被造世界は形状的女性格対象ということで、神と被造世界の間にも二性性相的な関係があるんということになります。こういう風に図示いたしますと、単なる文章よりは少し分かりやすくなるということで、よく原理講義などではこんな図が描かれるわけです。

 しかし、このように図示したところで、「じゃあ、神様って丸い形しているんですか?」とか、「こんな風に巴みたいになってるんですか?」ということになって、これでもまだイメージは湧きづらいわけです。そこで、この3つの内容を私たちにとって身近に分かるように、たとえばこれが人間だったらどういう状態なのかとたとえてみると、より分かりやすいだろうということになります。

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 一番初めの、「本性相と本形状の二性性相の中和的主体」というのは、人間に例えていうと、人間の性相は心であり、人間の形状は体ですから、心と体が一体となったような状態、これが神様のような状態だということになります。この心と体が一体となった人のことを一般に何というかというと、「人格者」ということになります。よく言う「人格者」とはどういう人かといえば、言葉と行動が一致している人のことです。例えば私がここでどんな立派なことを言ったとしても、むちゃくちゃな私生活だったとすれば、それは人格者とは言わないですね。言ったことはきちっと実践する、心で思っていることと体の行動が完全に一致しているような人間を人格者というわけです。神様におきましては、本性相と本形状が完全に一体化しているわけですから、「人格者」であり、神様ですから「人格神」だということになります。

 ですから、一番目の内容から導き出されてくるのは、神様は人格的な存在であるということなんです。それは、単なる宇宙の法則だとか、無味乾燥した原理といったような存在ではなくて、私たちが人間の人格者にあったときに感じるような、人格的交流のできるような存在である、つまり「人格神」なのだということを端的に表しているわけです。ですから、神様をイメージするとしたら、まず自分が一番尊敬できる人間が、個人の姿としての神様のイメージということになります。

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