キリスト教について学ぶ意義(5)
それからもう一つ、とても実践的な、とても現実的な問題として、私たちがキリスト教について勉強しなければならない理由は、反対牧師対策のために勉強しなければならない、という側面があるわけです。拉致監禁という行為がいまも行われていて、「脱会届」などというものが内容証明で送られてきて、その内容を私も読むことがあるのですが、「統一教会の教えが間違っていて、牧師先生を話した結果、聖書と違っていることが分かりましたので脱会させていただきます」というようなことが書いてあるわけです。それを読んで本当に感じるのは、原理の何を勉強していたのかな、どういうことを理解していたのかな、ということを疑問に思わざるを得ないわけです。
では監禁現場で反対牧師は、統一教会員を脱会させるためにどのような批判をしているのかというと、大雑把に言ってこのようになります。
まず、「聖書」と『原理講論』との相違点、および聖句の引用問題、ということで牧師らしく神学的な批判をしてきます。彼らにとってはあくまで聖書が真理の基準で、「原理講論も聖書を引用しているんだから、聖書を解釈したものですよね。聖書の土台の上に原理講論が成り立っているんですよね」ということを確認した上で、「じゃあ、聖書ではこう言っていますよ。でも『原理講論』ではこう言っている。矛盾しているじゃないですか。違うじゃないですか。『原理講論』は聖書を基に書いてるはずなのに、どうして聖書と違うんですか。」ということで、あくまで聖書を基準として攻めてくるということです。これでやられてしまう人は、聖書と『原理講論』の関係があまりよく分かっていない人、ということになります。
『原理講論』というのは実は聖書を超えた、新しい啓示として神様が下さったものであって、もし『原理講論』の内容が聖書と食い違っていたとしても、それは『原理講論』が間違っているということにはならないわけですが、その辺がよく理解できていないということです。
それから、『原理講論』そのものの表現上の不備な点というのは、実は確かにあるんですね。一つは翻訳上の問題とか、いろいろあるわけです。原典は韓国語ですから、日本語に訳したときに完全に意味を訳しきれないこともあるし、反対牧師などは「原理講論は国語としても間違っている」などといろんなことを言います。私は翻訳をした者の経験として、一つの外国語を日本語に訳して、完璧にきれいな日本語になるなどと言うことは普通はありえません。日本語の『原理講論』は翻訳された本であるということを前提にしないと、そういう極めて枝葉末節的なことであげ足取りをしようとすればできるところはありますが、それは原理が真理なのかどうかということとは次元の違う問題であるわけです。でもそういうところで割りと引っかかって、「原理は唯一無二の絶対不変の真理のはずなのに・・・」と言って、つまずいて倒れる人もいるんですね。
それから、『原理講論』以外の『御旨と世界』や『オモニム』等の「み言」の表現上の問題点を、あれやこれやとつついて、真理ではないということを説得してくるわけです。その批判内容のほとんどはいわゆる「あげ足とり」的なものであるわけです。あまり本質的ではありません。それでも統一教会員が説得を受け入れてしまう理由は、聖書について、およびキリスト教思想についての理解が乏しいケースが多いという点にあります。もともと聖書を読んだことがなかったわけですし、しかも神学を勉強したこともないわけですから。
キリスト教の神学や聖書解釈は実に多岐にわたっており、反対牧師の聖書解釈も牧師ごとに異なっています。ですから、反対牧師の言っていることは全部同じではありません。教派によって、その牧師によっていろんな批判があるんです。その批判を全部聞いていると、その批判同士が互いに矛盾していたりします。そのようなものです。ですから彼らの主張も、絶対的に正しいと言えるものではなく、キリスト教の中に数多く存在する解釈のうちの一つに過ぎないことを知っておく必要があります。
つまり、神学を多少なりとも知っている人であれば、この牧師がどの教派に属する牧師で、その教派はどういうタイプの信仰を持っていて、だからこういう発想をして、こういう意味で原理を批判するんだなという、その背景や構造が分かれば、相対化することができるんです。ところが、神学も全く分からない、キリスト教の教派についても無知ということになると、その牧師が言っていることの寄って立つ考え方の基本が分からないので、なぜそのような批判をするのかが理解できない。そして一方的に原理が間違いだと言われれば、「そうですか」と言わざるを得なくなってしまうのです。そういう意味でのキリスト教に対する予備知識があるのとないのとでは、反対牧師の説得に対して抵抗する力がかなり違ってくるということがあるわけです。
統一教会に対する批判には、大きく分けて二つのカテゴリーがあるということをまず知っておいてください。まず第一は、神学的批判と呼ばれるものです。これは教義とか信条に関する批判です。これは宗教界、特にキリスト教からの批判として表現されることが多いですね。まあ端的に言うと、「統一教会は異端である」ということです。「異端」というのは、基本的にキリスト教の中にあって変なものという意味で言っています。ところが最近は「異端」とすら呼んでくれません。「統一教会はキリスト教ではない」ということで、「異教」であるということです。そういう言い方をされています。それから、「文鮮明は偽メシヤ」である等々、まあこういうような批判がありますね。
キリスト教徒の場合は、統一教会の信仰そのものを否定する場合が多いです。とにかく間違ったことを信じているんだから、真のキリスト教を教えてあげなければならないという動機で説得するということですね。それに対抗するには、キリスト教の基本的な教義や考え方を知っておかなければならないし、それにどういう限界があるのかということも同時に知っておかないと、その批判に耐えられません。すなわち、既存の神学と比べて、統一原理はどのように異なっていて、どのように優れているのかということを比較の上で知っていれば、どんなことを言われたとしても、原理の真理性は揺るがないわけです。そういう知識があれば、反対牧師の批判に対してかなり有効に反論できるし、堪え得るであろうということです。
統一教会批判のもう一つのカテゴリーに、社会的批判というのがあります。これは、信教の自由というものがあるので、一般社会のキリスト教の信仰を持っていない人からすれば、統一教会の教えが正統か異端かなどということはむしろ関心がないんですね。「正統でも異端でもどっちでもいい。とにかくあんたがたは社会に迷惑かけてる」という批判です。これは「霊感商法」であるか、「カルト」であるとか、「マインド・コントロール」であるとか、「洗脳」しているとか、あるいは反社会的団体である、というような批判がなされています。
これは神学では答えられない分野ということになります。ですからこれには宗教社会学や宗教学などの知識で反論するのが有効だということになります。価値中立的な科学としてのこれらの学問の多くは、われわれにとって有利に働きます。ですから統一教会を社会学的に研究した本当に真っ当な著作は、私たちを非常に高く評価してくれる場合が多いです。それに対して反対派が言っている「マインド・コントロール」とか「洗脳」というような理論は、科学的根拠を欠いた、非常に欠陥が多いものです。こういう不当な批判に関してはきちっと科学的に反論すべきです。ですから、その手の批判に対しては、その手の知識で反論していかないといけないわけです。こういう知識を少しずつ身に付けていかないと、兄弟たちが「親からこういうことを言われた」というときに、それにしっかりと責任をもって答えることができませんので、こういう勉強もしていただけたらと思います。
それに基づいて、反対派の不当な迫害や、違法行為についてよく知っておく必要があります。彼らは「マインド・コントロール」ということを理由に、拉致監禁しているんですよ。つまり、「マインド・コントロール」というのは、自分で考えることができなくなってしまったのだから、多少手荒なことをして閉じ込めてでも「洗脳」を解いてあげなければならない、という考え方になるんです。ではもしその「マインド・コントロール」という考え方に科学的根拠がなかったらどうですか? それは彼らが全く間違った前提に基いて人権侵害をしているということになるわけです。そういうことをしっかりと批判していかないといけない、ということです。