実況:キリスト教講座32


統一原理の神観について(6)

アリストテレス

 神様が「純粋形相」であるという考え方は、アリストテレスの「形相質料論」というものに基づいています。アリストテレス(384BC – 322BC)というのは、イエス様よりも前の時代のギリシアの哲学者です。彼の哲学がキリスト教に受け入れられて、その存在論を構成するようになったので、この話をしているわけです。アリストテレスはユダヤ教徒でもクリスチャンでもありませんから、彼はキリスト教でいうような人格神を信じていたわけではありません。彼が想定した「神」は「不動の動者」といって、宇宙の究極的な第一原因をイメージしていたようです。しかし、これが後に聖書の神と同一視されてキリスト教神学に受け入れられたということです。

実況:キリスト教講座挿入PPT32-1

 アリストテレスは、すべての存在は「形相」と「質料」という二つの要素からなっていると考えたわけです。この「形相」というのは何であるかというと、物を作るときの設計図に当たります。「質料」とは何であるかというと、材料です。たとえばこのコップでいえば、コップを作るにはまず設計図が必要です。たとえば口の直径が何センチで高さが何センチでという青写真が必要です。そのようなコップの理念に該当するものを形相といいます。しかしそのアイデアだけ、設計図だけではコップにならないわけで、材料を取ってきてガラスをこの形に作らないと具体的なコップになりませんね。その素材としてのガラスのことを質料というわけです。このように設計図と材料が合わさってはじめて一個の実体のある物体となるわけです。

 このように、アリストテレスの「形相質料論」におきましては、すべての存在は「形相」と「質料」の両側面があるということでありまして、統一原理で言うところの性相と形状の二性性相と極めて似たようなことを言っていたわけです。このアリストテレスの考え方は、中世になってキリスト教神学に取り入れられるようになります。特に、中世の偉大な神学者であるトマス・アクィナスという人は、このアリストテレスの哲学を屋台骨にして独自のキリスト教神学を立てた人です。

トマス・アクィナス

 よく言われるのは、「トマス・アクィナスがアリストテレスに洗礼を施した」ということで、彼によってアリストテレスの哲学が神学にまで昇華されたということなのですが、その逆も言えるわけで、トマスによってキリスト教神学に対するギリシア哲学の影響がより色濃くなったとも言えるのではないかと思います。このトマス・アクィナスが、アリストテレスの形相質料論を用いて、被造物においてはすべての存在がこの形相と質料からなっているけれども、第一原因である神様だけにはこの質料というのはなくて、「純粋形相」なんだと言ったわけです。

 つまりこの理論は端的に言うと、あらゆる存在は形相と質料からなっているけれども、神様だけはこの存在論の例外であり、質料がまったくない「純粋形相」である、と言っているわけです。統一原理風に言うと、それは形状部分のない性相だけの神様ということになります。

 なぜ神には質料がないと言っているのかというと、「形相」が永遠不変であるのに対し、「質料」は可変的なものであることから、神が永遠不変の存在であるためには「質料」すなわち物質的な要素があってはならないからだというわけです。でもよく考えると、原因者である神に物質的要素がないのに、なぜ結果的存在である被造物には物質的要素があるのか、という根本的な矛盾をはらんでいることになるわけであります。つまり、神様を「第一原因」であると言っていながら、物質的側面に関しては神様と被造世界の間で因果律が分断されてしまっているということなんです。これは、物質に価値を認めない「二元論的偏見」から来ているものだと言わざるを得ません。

実況:キリスト教講座挿入PPT32-2

 その点で、統一原理は極めて首尾一貫しているわけであります。統一原理におきましては、全ての被造物に「性相」と「形状」という二面性があるからには、その原因者である神御自身の中にもより根本的な「性相」と「形状」がなければならないということで、原因と結果を一致させているわけです。すなわち、神は物質的な側面においても我々の原因者であり、この形状面における因果律は分断されていません。という意味において、統一原理の方が哲学的により首尾一貫しているんだということになります。

 ところが既存のキリスト教神学においては、被造物には精神的な側面と物質的な側面の二面性を認めながらも、その原因者であるところの神様には物質的側面を認めないわけです。その意味において、片手落ちになっているということです。

 さて、このことから分かるのは何でしょうか? キリスト教神学が神の物質的側面を否定することによって守ろうとしたのは結局、神の永遠性と不変性という概念だったわけです。しかし、このような「永遠性」と「不変性」というのは、よく考えると、とても魅力のないものだということが分かります。

 すなわち、神様が一切変わらないということは、全知全能であり、完璧であるから、進歩もしないし、さらに低級な被造物からはまったく影響を受けない、したがって人間を見ても期待もしないし感動もしないという、非常に硬直した「永遠不変の牢獄」の中に閉じ込められているような神様の姿を描き出してしまったわけです。すなわち、「永遠性」とか「不変性」といった観念のために、論理的な無理をしてまで神から「体」を奪い去ってしまったわけです。これが既成のキリスト教神学が持つ大きな問題であり、欠陥であるということになるわけであります。

 それに対して統一原理の神観というのは、形状的側面を持ちます。これは可変性を持つわけでありますから、人間からも影響を受ける、すなわち人間とダイナミックな関係を結ぶことができるわけです。ですから、伝統的なキリスト教神学がいうような意味で、硬直した「永遠不変」の神様ではないわけです。

 だからといって統一原理は神様が永遠不変であることを否定しているわけではありません。何も変わらないとか、一切影響を受けないという意味で永遠不変なのではなくて、別の意味で永遠不変だと言っているのです。それは「愛」と「心情」において永遠不変であるということです。すなわち、神様は人間を愛したにもかかわらず裏切られた場合には傷つくこともあるし、人間の行動に影響されもするわけです。しかし、どんなに人間から裏切られたとしても、親として子供を愛するその心情は永遠に変わることがないのです。すなわち、より本質的な愛と心情という観点において神様は永遠不変だということになるわけです。

 結局、既存のキリスト教神学は、存在論的に神の形状部分を切り捨てることによって永遠不変性を守ろうとした。しかし、統一原理はそのようなことをしません。同じ永遠不変性を主張していても、まったく発想が違う神学だということです。

カテゴリー: 実況:キリスト教講座 パーマリンク