実況:キリスト教講座28


統一原理の神観について(2)

 その次に、神様という存在は本陽性と本陰性が一つになったような存在であるということは、人間でいうと、男と女が一つになった存在だということになるわけです。つまり神様をイメージするとき、男だけでは神のイメージとして不十分であり、女だけでも神のイメージとして不十分だということになります。男性と女性が一つとなった姿、これをもって神様ということになるわけです。では私たちの身近な存在の中で男性と女性が一つとなって、私を愛してくれる人格的な存在とは何であるかというと、それは父母だということになりますね。ですから、男性と女性が一つとなって私の原因になっているという意味において、父母の姿こそがまさしく神様の姿だということになるわけです。

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 三番目は、被造世界と神様の関係について述べているわけでありますが、これが人間と万物の関係に展開されるとどうなるかというと、ちょうど神様が被造世界に対して主体の立場に立つのと同じように、人間は万物に対して主体の立場に立つようになります。すなわち、人間は神様の代身として万物の主管主という立場に立っています。したがって、万物を主管している人間の姿が、まさしく神の代身でありますので、神の似姿ということになるわけです。

 このように神様の三つの属性、これを三大属性といいますが、その三大属性に似た姿を人間に当てはめてみると何が出てくるかというと、①心と体が一体となった人間の姿、②男と女が一体となった人間の姿、③万物を主管している人間の姿――というものが導き出されるようになっているわけです。これは結局何かというと、一番目は個性完成=第一祝福のことを意味しています。二番目は子女繁殖=第二祝福のことを意味しています。そして三番目は万物主管=第三祝福のことを意味しているということになります。

 結局、私が何を言いたいかというと、皆様気が付いていたかどうか分かりませんが、『原理講論』の第一章一節に出てくる、神様とはどんな存在かを表した三つの属性をそのまま人間に展開すると、創造目的のところで述べられている三大祝福の内容が自動的に出てくるようになっているということなんですね。これは非常に大切なことでありまして、なぜ人間は神の子であると言えるのかといいますと、神の似姿として創られたといわれてるじゃないですか。神様にそっくりな実体対象として創られたと言われていますけれども、神様と人間は親と子の関係であるので、人間が成長して完成すれば親に似るようになるという話は聞きましたね。では、どのようにして似るようになるのかというと、この三大祝福を完成することを通して、神の三大属性に似るようになっているのだということなんです。

 実はこれが原理の最も根本的な構造でありまして、その特徴は、神様と人間が完全な似姿、すなわち相似形になっているという考え方なんです。これはとっても当たり前のようなんですけれども、ものすごく大事な、原理という思想の屋台骨です。ここにすべての神観と人間観が詰まっているといっても過言でないくらい重要な、統一原理の神観と人間観だということです。

 これが統一原理の思想的骨格ということになるわけですが、先ほど言ったように、実はこの三大祝福というものは、神の三大属性から演繹的に導き出されるわけです。皆さんは原理講義の中で最初に三大祝福について説明されたときに、どう聞きましたか? 「聖書の創世記1章28節がありますね。ここに『生めよ、増えよ、地に満ちよ。よろずのものを治めよ』と書いてありますね。これが神様の三大祝福なんですよ。」というふうに習ったと思います。それはそれで正しいんですが、それはあくまでも聖書的根拠に過ぎないということになります。言ってみれば、創世記1章28節なんていうものがなかったとしても、三大祝福の内容は、天地創造のその時から変わらずにあったわけですよ。だって、神様がそういう存在で、その似姿として人間を創ったということなんですから、聖書があろうとあるまいと、神様の三大属性と人間に対する三大祝福というのは初めから創造目的として存在していたということです。

 そもそも人間が堕落しなければ聖書なんてなかったわけですから、堕落した後で、神の啓示として、三大祝福の内容が「生めよ、増えよ、地に満ちよ。すべてのものを治めよ」という言葉で表現されたにすぎないわけです。つまり、聖書が先にあったのか、原理が先にあったのかといえば、原理が先にあったわけです。堕落したから聖書というものが書かれたんであって、聖書から原理の内容が出てくるのではなく、原理の骨格が最初にあって、その一部が聖書に表現されているから引用しているにすぎないわけです。

 ですから、この神の三つの属性と、人間の創造目的である三大祝福が完全な相似形を成している。これが原理の美しさであり、原理の神観・人間観が非常に優れているところなのです。この神観と人間観が統一原理の骨子をなしています。この骨子を理解することなくして、原理を理解したとは言えません。しかし、これと比べて、既存の神学はこの神観と人間観が完全な相似形をなしておらず、すべての点において片手落ちになっているわけです。そういう意味で、歪んだ、バランスの取れない神学になってしまっている、すなわち真理の全体像をとらえられずにいるというのが、既存の神学の欠陥であり、問題点であるということです。このように整理することができます。

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 ではどのように伝統的神学というものにおいて、この二性性相のバランスが崩れているかと言うと、統一原理においては神様は本性相と本形状の二性性相の中和的主体と言われていますが、伝統的神学におきましては統一原理で言っているような「本形状」を認めません。つまり、神様の中に形とか、物質とか、そのような側面があるとは考えないで、純粋な心だけ、性相だけの神様というようにとらえる傾向があります。これは神が無形であるということと結びついているわけです。

 その次に、原理では本陽性と本陰性ということで、神様には男性的側面と女性的側面の両方があると言っていますが、伝統的神学におきましてはこの本陰性の部分、女性の部分が否定されているということになります。つまり、男性格のみの神様である。ですから「父なる神」ということです。「母なる神」ではないわけです。女性は神の似姿としては認められていないわけです。男性だけが神に似ている、なぜかというと神は男性だからという極めて偏った神観になっているわけです。

 そして、原理におきましてはあくまで授受作用でありますから、神と被造世界の間にはよく授けよく受けるという授受作用の関係があるわけです。ということは、神が被造世界を愛すると同時に、被造世界も神に美を返すということになり、神様も被造世界から何かを受けるということを前提とした、授受作用の関係であるのに対して、伝統的な神学におきましては、神様が被造世界に何かを与えるということはあったとしても、被造世界から神様が何かを受けるというようなことはあり得ない、と考えているわけです。神は完全な存在であり、被造世界は不完全な存在なんだから、不完全な被造世界から神様が何かを受ける必要もないという神観、すなわち神と被造世界との関係が一方通行なんです。

 統一原理の最も根本的な屋台骨となっている神観・人間観におきまして、特に伝統的なキリスト教神学におきましては、ことごとくその片方が否定されているわけです。そういう意味におきまして、統一原理と伝統的神学は著しく異なっています。ある意味において、原理というものは全体像を明らかにしたのであり、ここまで完全に真理を表現できたのは統一原理だけであると言えるわけです。既存の神学というのは、その真理の一部分しか見えなかったので、片手落ちにならざるを得ないということになります。この三つのポイントを、これからそれぞれ説明してみたいと思います。

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