書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』188


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第188回目である。

「第Ⅲ部 韓国に渡った女性信者 第九章 在韓日本人信者の信仰生活」の続き

 「第9章 在韓日本人信者の信仰生活」は、韓国に嫁いで暮らす日本人の統一教会女性信者に対するインタビュー内容に基づいて記述されている。第185回から「四 日本人女性にとっての祝福家庭」の内容に入った。中西氏によれば、この部分は日本人女性信者たちが祝福や韓国での家庭生活にどのような意味づけをしているかを、彼女たち自身の口を通して語らせることにより、彼女たちが「主観的にどう捉えているか」を見ることを目的としているという。そしてそれを通して、なぜ彼女たちが韓国にお嫁に来て統一教会の信仰を維持できるのかを明らかにしようとしているのである。

 中西氏によれば、韓国で暮らす日本人女性信者たちの結婚生活を下支えしている統一教会の教えは、①地上天国の実現と、②罪の清算であるという。前回から②の「罪の清算としての生活」に関する記述に入ったが、今回はその続きである。

 中西氏は「日本人女性信者達は韓国での生活を罪の清算として受け止めていると同時に、もう一つ、別の受け止め方もある。離婚、脱会で韓国の生活をやめることは逆に『蕩減が重くなる』という理由である。」「韓国での生活を続けることは罪の清算になるが、逆に離婚や脱会をして韓国での生活をやめることは罪を増すことになる。だから韓国での生活をやめられない、離婚も脱会もできないということである。」(p.498)と述べている。

 まず、韓国での生活をやめれば「蕩減が重くなる」という表現は、『原理講論』の中に出てくる蕩減条件の立て方に関する記述に基づくものであり、宗教的教義の理解としては正当なものであることを確認しておきたい。そもそも「蕩減」とは、罪を償うためにそれを埋め合わせるに足るだけの条件を立てることを言うのだが、原理講論ではその程度として「同一の条件」「より小さな条件」「より大きな条件」の3種類が紹介されている。このうち、「より大きな条件」をもって償うことを「増償法」と呼び、以下のように説明されている。
「これは、小さい価値をもって蕩減条件を立てるのに失敗したとき、それよりも大きな価値の蕩減条件を再び立てて、原状へと復帰する場合をいう。例えば、アブラハムは鳩と羊と雌牛とをささげる献祭において失敗をしたため、彼の蕩減条件は加重され、一人息子のイサクを供え物として、ささげるようになった。また、モーセのときには、イスラエル民族が四十日の偵察期間を、天のみ意にかなうように立てることができなかったために、その蕩減条件が加重され、彼らは一日を一年として計算した四十年間を、荒野において流浪しなければならなかったのである」(『原理講論』後編 復帰原理・緒論より)

 したがって、こうした教義を理解している在韓の日本人女性信者が、「祝福破棄したらなおさら蕩減が重くなる」(p.498)というような捉え方をするのはある意味で自然なことである。しかし、このことを中西氏は青春を返せ裁判の資料から引っ張ってきた「いったん原理に出会い、これを知った者が、原理を捨てることは、原理を知らない者以上に罪深いことであり、その者は霊界において、永遠に責め続けられる」といった証言を引用しながら、「この教えを植え込まれ、恐怖心ゆえに脱会できなかった」というような解釈と結び付けている。

 祝福の破棄や離婚によって蕩減が重くなるという宗教的言説が、韓国での苦しい生活を忍耐していくうえで心の支えになったり、励ましになったりした可能性はあるであろう。しかしながら、その恐怖のゆえに離婚や脱会ができない心理状態に追い込まれていたというのは、まったく別の話である。なぜなら、実際にそのような言説を聞いていても脱会する信者が日本に多数いるのと同様に、祝福を破棄して離婚、日本への帰国、脱会といった選択をする信者は渡韓した日本人女性の中にもいるからである。このことは櫻井氏の示した事例によっても、中西氏のインタビューによっても示されており、こうした宗教的言説は信者の自由意思を拘束して脱会を阻止することはできないことが証明されている。したがって、こうした宗教的言説を信じるか信じないかは、最終的には個人の自由意思に基づく選択によって決定されるのであり、その効果を過大評価することはできない。

 中西氏はこうした宗教的言説による恐怖や忍従という要素を指摘する一方で、信者達の現実の信仰生活を観察すれば、それだけで韓国にいるわけではないことを認めている。少々長くなるが、その部分を引用してみよう。
「日本人女性信者達は韓国での生活に地上天国の実現という希望的な意義を認めながら、その一方で罪の清算や棄教の恐怖を併せ持って生活を続けている。夫や舅姑に仕え、口答えもせずに耐え忍ぶだけの生活をしているように見えるかもしれないが、実際に接した日本人信者に限っていえば、経済的に楽ではなくとも忍従の日々を送っているようには見えなかった。教会に集まると『うちのシオモニが』『うちの主体者が』と、姑や夫の話をして楽しそうに笑っている。調査地滞在中、彼女達の家に訪問することがしばしばあった。『一人で食事するんでしょ』『何もないけど、よかったら食べに来たら』と家の夕食に誘ってくれたり、こちらからいきなり訪ねて行って家に上がって聞き取りをしたりした。途中で夫や姑が帰宅することもあったが、彼女達はいっこうに気にする様子はなかった。ある女性の家で聞き取り調査をしているところに夫が帰宅したことがあった。夫は気遣ってくれたのか、着替えるとすぐに子供を連れて散歩に出かけた。夕方だったので筆者の方が調査を切り上げて帰るべきだが、彼女は『いいの、いいの』と夫に遠慮する様子もなかった。もし彼女達が夫や舅姑に遠慮しながら暮らしていたら、筆者を家に誘うことはないだろうし、こちらから訪問するのも嫌がったと思う。」(p.499)

 中西氏が罪の清算や棄教の恐怖を強調する割には、実際に彼女が出会った日本人女性たちの生活は楽しくて生き生きとしたものであったし、韓国人の家族との関係も気兼ねのない和気あいあいとしたものだったようである。統一教会反対派は、韓国に渡った日本人女性たちは苦労ばかりの多い生活を強いられているかのように主張しているが、実際には彼女たちは韓国でたくましく生きており、現地に適応して充実した生活をしている場合が多いのである。このギャップの原因としては二重の要素が考えられる。

 第一に、彼女たちの生活を支えているのは確かに統一教会の信仰だが、その中における創造原理的な部分と堕落論・復帰原理的な部分のバランスである。中西氏の表現によれば①地上天国の実現と②罪の清算という二つの動機のバランスになるのだが、人はネガティブなことを中心とするよりも、ポジティブなことを中心として生活した方が前向きで積極的な生き方ができるものである。日韓の壁を越えて理想家庭を作り、神の子を産み育てるという創造原理的な希望の方が彼女達の信仰生活の中でより大きな部分を占めているということではないだろうか。自分の置かれた環境が「罪の清算」のためであるという認識は、彼女達が乗り越えるべき試練や苦労に立ち向かっていくときにはクローズアップされたかもしれないが、幸福な家庭生活を送っている場合には無理にそのことを意識する必要はないのである。

 もう一つの要素は、宗教的な教えと現実の生活とのギャップである。在韓の日本人女性信者たちは俗世間と隔離された修道生活を送っているわけではなく、世俗の世界の中に身を置いて生活しているわけであるから、四六時中宗教的なことだけを考えて生活しているわけではない。実際問題として、いかに篤実な信仰を持った人だといっても、常に「罪の清算」のことだけを考えて生活しているわけではないだろう。

 さらに、同じ宗教的教えを信じているといってもその解釈の仕方は人それぞれである。例えば、統一教会の祝福について研究を行った米国の宗教社会学者ジェームズ・グレイス博士は、著書『統一運動における性と結婚』において、男性が主体であり女性が対象であるという『原理講論』の公式の教えがあるにもかかわらず、実際の夫婦関係における男女の役割分担に対する考え方は祝福家庭のカップルの中でも様々な解釈が存在すると分析している。すなわち、文字通り女性は男性に従うべきであるという考え方をする者もいれば、主体と対象はより実存主義的な意味であり、役割分担を固定化しないより開かれた解釈をすべきだと考える者もいたということだ。

 このことから敷衍すれば、韓国における祝福家庭の夫婦関係や嫁姑の関係においても、日本人が贖罪のために一方的に夫や舅姑に仕え、忍従しなければならないという考え方はあまりにも文字通りの「根本主義的」な教義の理解であり、実際の家族関係はより柔軟で開かれたものであるべきと考える者がいても不思議ではない。宗教的な教えが存在することと、それを実際の生活に適用して実践することは別の話であり、両者の間には常にギャップがあることは理解しておかなければならないであろう。

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