実況:キリスト教講座26


キリスト教と日本人(14)

 それではなぜ日本のキリスト教徒は増えなかったのでしょうか? 戦後の日本のキリスト教の問題点をまとめるとこうなります。

 まず、戦前に権力に屈したことに対するの反省から、キリスト教は急速に反権力、反天皇主義に傾斜していきました。つまり、戦争をやっていたころには権力の言いなりになり、天皇陛下に屈服してしまったので、それが終わってから逆に反発している状況であるわけです。そうすると、この反権力とか反天皇というと、非常に思想的に相性が良いのが左翼ということになってしまいます。ですから、共産党や旧社会党などと結び付いて反靖国運動などを展開して、どんどんキリスト教が左傾化していくということが起こりました。

日本収容所列島

 このことについては、『日本収容所列島』(梶栗玄太郎・編、2010年)という本の中で太田朝久氏が書いた「左翼が入り込んだ日本基督教団」(p.183~)という文章があります。これを読んでいただければ、その歴史的背景が分かると思います。

 左傾化する日本キリスト教界を象徴する事件が、1949年に起きた赤岩栄牧師の「共産党入党宣言」でした。彼は、理論的にも実践的にもキリスト教と共産主義とが両立しうると主張して、日本基督教団の牧師のままで共産党入党宣言を行ったのです。最終的には教団幹部の説得により入党を思いとどまりましたが、「信仰はキリスト教、実践は共産主義」を主張して、教団を分裂させることになります。

 1960年代・70年代の安保闘争は、日本基督教団の神学校である東京神学大学にも影響を及ぼすようになり、1970年には「反万博闘争」と呼ばれる学内紛争が起こります。これに対し、東神大教授会は機動隊を投入して社会派の学生を排除しました。これが「社会派」と「教会派」という日本基督教団内の紛争に発展し、特に1971年5月の東京教区総会は、乱闘、流血の事態になりました。その後、社会派のキリスト教は、反靖国運動、天皇制反対運動、部落差別反対運動、反核運動など、左翼勢力の好む社会的テーマを追求することにより、完全に共産主義に乗っ取られてしまうような形になります。

 すなわち、キリスト教でありながら左翼と結びついてしまった。共産主義とか社会主義というのはもともと唯物論ですから、そういうものと結びついてしまうと、キリスト教の持っている本来の霊性が失われてしまうわけです。したがって、環境的には恵まれているにも関わらず、信者は増えないということになったわけです。しかも、日本基督教団を挙げて、反統一教会活動に取り組むことを1988年に決議するなど、日本のキリスト教会は完全に神の御旨に反する方向に向かってしまったわけです。天運が去ってしまったということが、教勢が伸びない最大の原因だということになります。すなわち、環境が恵まれているにもかかわらず信徒が増えないということは、キリスト教自体が失敗したと考えるほかないわけです。基本的には、共産主義にやられてしまったということが、大きな失敗であるわけです。

 そこで、戦後の日本ではキリスト教の代わりにさまざまな新宗教が勢力を伸ばしました。これは西洋のある宗教学者が「神々のラッシュアワー」と呼んだくらい、日本の戦後というのは新宗教がどんどん誕生した時代でした。また、霊友会、立正佼成会、創価学会などの教団は、設立は戦前であっても戦後になって巨大教団に成長してその存在感を示すようになりました。これは本来キリスト教徒になっても良かったような人々を、どんどんこうした新宗教が吸収していったということであり、キリスト教はマーケット争いに完全に敗北したということになります。

 なぜ敗北したのかというその理由の一つに、「土着化」に失敗したということが恐らく言えるでしょう。「土着化」とはどういう意味でしょうか? キリスト教は西洋の宗教ですね。それが日本に入ってきたときに、西洋的なものを身にまとったまま日本に入ってこようとしても、文化の壁があるのでなかなか受け入れるのが難しいわけです。これを真に日本人が受け入れられるような、日本人に分かりやすいキリスト教にする努力のことを「土着化」というわけです。それをどうもキリスト教は十分にしてこなかったようです。キリスト教はとてもエリート主義で、日本文化との融合を嫌い、先祖供養に代表されるような日本の土着の文化を否定してきたわけです。日本人にとって先祖を敬い供養するということは宗教の中心です。しかし、キリスト教は先祖供養に対して神学的意味を何も見いだしませんでした。先祖を大切にする日本人にとってキリスト教というものは大変受け入れがたいものだったわけです。根本主義的なキリスト教の場合には、クリスチャンになるために仏壇を棄てなければならない、神棚も棄てなければならないということになりますね。それが日本人の精神性と合わないということで、日本の文化をもっと尊重するキリスト教にならなければ、これ以上広まることはできないだろうということです。

 その点、統一教会は東洋に土着化したキリスト教であるわけです。すなわち韓国という東洋の同じような文化圏の国で生まれたキリスト教なので、日本で成功する余地があったということです。すなわち、統一教会はまさにキリスト教信仰と東洋思想の融合であるので、その他の西洋的ないわゆるバタ臭いキリスト教に比べれば、日本人にとってはるかに受け入れやすい内容を持っていたということです。

 たとえば陽陰の思想であるとか、家庭を大切にする思想であるとか、再臨復活を通して先祖が救われるとか、こうした内容は他のキリスト教にはないとても東洋的な部分があるわけですね。それがあるが故に日本人にとって統一教会というのは、他のキリスト教よりははるかに受け入れやすく、理解されやすいものであったので、爆発的な伸びを統一教会が示したということです。

 そのように考えてみると、日本キリスト教史を通観してみて、いまここにいる私たち統一教会信徒の使命とはなにかをまとめることができます。これが結論です。私たちは、日本における復帰摂理の最終ランナーとして神に召命された者たちであるということです。つまり、ザビエルから始まってキリシタン時代の頃から日本に対する神様の復帰摂理は始まっていたわけです。それを殉教したり、隠れキリシタンになったり、いろんな人たちがバトンを引き継ぎながらいままで歩んできたわけです。それを最後に受け取ったのが、私たち統一教会の食口であるということになります。

 ということは、まずそのバトンをしっかり受け取らないといけません。そのバトンを受け取るということは、日本において信仰を立ててきた義人・聖人の使命を相続するということでありますから、ますなによりも日本のキリスト教の歴史をよく知って、どんな人たちが信仰を立ててきたのか、どんな人たちが立派な歩みをしてきたのかということを学んで、その人たちを尊敬し、勝利圏を相続しなければなりません。それがまず第一です。

 その次に、日本のキリスト教が失敗してきた内容を蕩減復帰する使命が統一教会にはあります。その失敗は二つのポイントがあります。まず日本に土着化できなかったことが失敗でありますから、私たちは日本に土着化するキリスト教を目指していかなければなりません。ですから日本文化とキリスト教を融合させるということも、統一教会の大きなテーマになります。そしてキリスト教が左翼にやられてしまった、すなわち共産主義と闘うことができなかったことが失敗でありますから、なによりも統一教会は共産主義と闘うキリスト教でなければなりません。ですから勝共運動をやりながら、ここまで共産主義と徹底的に闘うキリスト教は他に存在しません。なぜそうなのか? それは統一教会が持っている特殊な使命があるからだということになります。

 そして、遠くさかのぼっていけば、信教の自由がずーっと認められずにきた日本の歴史がありますので、私たちは拉致監禁強制改宗の問題と闘いながら、本当の意味での信教の自由というものを日本で確立する上で、最も重い十字架を背負って戦わなければならない教団であるので、このような現象が起こっているわけです。

 そう考えてみると、いまある統一教会の姿というのは偶然こうなっているのではなくて、日本においてキリスト教を中心として神様が摂理してきた内容をすべて相続して、そして最終ランナーとして天のみ旨を成就するために、いまの日本の統一教会が存在しているのだということがご理解いただけるのではないかと思います。そういう自覚をもって、日本の国に対して復帰の責任をもつのが、私たち一人ひとりの使命だということになります。これが結論です。

カテゴリー: 実況:キリスト教講座 パーマリンク