書評「ムーニーの成り立ち」04


第三章「統一教会の信条」

 このシリーズはアイリーン・バーカー著『ムーニーの成り立ち』のポイントを要約し、さらに私の所感や補足説明も加えた「書評」です。今回は第三章の「統一教会の信条」を要約して解説します。食口の方の中には、「なんだ原理の解説か、それなら読まなくても分かっている」と思う方もいるかもしれませんが、実際にはこの章には私たちの知らなかった多くの内容が出てきます。

若かりし頃のアイリーン・バーカー博士

若かりし頃のアイリーン・バーカー博士

 この章の冒頭部分を読んで最初に気付くのは、バーカー博士が統一教会の宗教性ならびに神学に対して非常に高い評価をしているということです。バーカー博士は、お父様が聖和されたときにも、宗教社会学者の立場から、CNNの宗教ブログに特別寄稿しており、その中で以下のように述べています。

「文師は合同結婚式や非難告発されてきた洗脳(マインドコントロール)、政治的陰謀及び巨万の富といった全てのことで記憶されているようだが、しかし一方で彼は当代の新宗教が奉じた中でも間違いなく最も包括的かつ革新的な神学を創り出した人物としても記憶されるべきである。」
(統一教会公式サイトの要約より:http://www.ucjp.org/?p=13310

 これと同じ趣旨の言葉を「ムーニーの成り立ち」の第3章から拾ってみれば、以下のような記述を挙げることができます。

「統一教会は本当は宗教ではないということがときどき言われているが、これは無意味なことである。どのような基準によっても、統一教会が宗教であることは極めて明確である。」
「その神学は、今世紀後半に興ったいかなる新宗教運動と比較しても、最も包括的なものであることはほぼ間違いない。『原理講論』は、独自の宇宙論、神義論、終末論、救済論、キリスト論、そして独自の歴史解釈をもっている。」
「その神学は、私が信じるに、統一教会の最も重要な資源の一つである。」

 これらは、実際に修練会に参加し、西洋の食口たちと寝起きを共にしながら統一教会を観察したバーカー博士ならではの慧眼ではないかと思います。私たちの教会における「原理」の重要性を、バーカー博士ほどに深く共感的に理解している外部の学者は、おそらくいないのではないかと思います。

 統一原理は、「聖書」と「科学」の両方にその正しさの根拠を求めると分析した後に、バーカー博士はそれが「作用する」ということが、もう一つの真理性の根拠となっていることを指摘します。ここでいう「作用する」というのは、生活の中で生きた真理として働くという意味です。「統一神学は、それが経験的に現れると信者たちが信じているという点において、実用的な神学である。それを信じ、それに従うことによって生じる目に見える結果のゆえに、それは真理に違いないと理解するのである」というバーカー博士の言葉は、単なる机上の論理としてではなく、実践を通して原理の真理性を実感していく我々の信仰生活の本質をよくつかんでいると言えるでしょう。しかし、一方でこのような「実践神学」は、両刃の剣であることもバーカー博士は指摘しています。

「しかし、神の真理とこの世に起こっていることとの関係を認めるいかなる『実践神学』もまた、その反証になると思われる証拠を人々が見いだすであろうというリスクを負っている。」
「そのメンバーの多くは、原理が『作用する』ということを信じなくなったか、あるいはそれが作用する方法をもはや歓迎しなくなったがゆえに、脱会した。」

 バーカー博士の観察からも分かるように、信仰を維持できるかどうかは結局、日々の生活の中で原理を実践し、神の働きを実感できるかどうかに尽きるのだと思います。

 この本は統一教会に関する事実をよく知らない人を主な読者として想定しているので、その教義の説明自体は我々にとっては基本的に目新しいことではありません。バーカー博士は、「他の人々が重要で根本的な真理であるとみなしていることが何であるかについて、非信者が満足の行く解説をするのは常に困難なことである。『原理講論』は、その複雑な教義を甚だしく不当に扱うことなしには、要約できないということもまた認識されるべきである。・・・言い換えれば、以下の記述に基づいて『原理講論』を神学的に審判することは不公正であろう」と断ったうえで原理の解説をしていますが、その要約の手際はなかなかのものだと思います。

 この章には興味深い情報がいくつかあります。脚注によると、当時、西洋では周藤健先生がまとめた「120日修練会マニュアル」というものが、伝道や信仰指導のためのガイドブックとして使われていたようで、そこには「人々は、お父様がメシヤだということを理解できるまで入居することはできない」と書かれていたようです。「入居」とは共同で信仰生活を出発することを意味しますから、「メシヤを受け入れた後で信仰生活を出発」という、ごく当たり前の原則を示しているのでしょう。しかし、バーカー博士は社会学者らしく、約400名の信者にアンケート調査を行い、文師がメシヤだということを初めに受け入れたのはどの時点だったかを尋ねています。その結果、半数近くが再臨論を聞いてすぐに信じたと言い、加えてさらに三分の一が運動に入会するまでに信じたと言ったそうです。要するに全体の6分の5(83%)が入会するまでに文師がメシヤであることを受け入れているという意味ですが、残りの約17%は未回答者や、入居してもなお確信が持てないと答えた人です。そして、現役の信者で「文師がメシヤではないと確信している」という人は一人もいなかったとのことです。こうしたデータがなぜ重要であるかというと、統一教会は不実表示や情報の秘匿によって人々を騙して入信させているという主張が反対派によってなされているからです。しかし事実はそうではなく、大多数の人々が統一教会の信仰の核心部分を明かされたうえで、納得して信仰を持っているということがデータによって示されています。

 さて、統一原理の内容の説明を一通り終えたバーカー博士は、統一教会内部における「原理理解」の差異について論じ始めます。すなわち、一口に統一教会員といっても原理に対する理解は一様ではなく、「横的差異」と「縦的差異」があるというのです。「横的差異」とは地域や集団ごとの「個性」のようなものです。韓国教会とアメリカ教会と日本教会では原理の理解において若干の差異があるのは理解できるだろうと思います。より細かく言えば、日本国内でも復帰された部署や地域、時代によって信仰観が異なるというのはあると思います。バーカー博士の研究は西洋に限られているので、その中における差異ということになり、とくに「オークランド・ファミリー」と呼ばれる集団は、正統的な原理講義とはだいぶ違って見えるものを、とりわけ初期の段階においては教えていたことが明らかにされています。これは、統一原理がカリフォルニアの文化に土着化したものであると言え、日本の文化に土着化した「統一原理の日本的理解」が、仏教的世界観の影響を受けたのと同じような現象なのではないかと思います。「オークランド・ファミリー」がなぜこのようなプレゼンテーションの仕方をしたのかは、おそらく当時のカリフォルニアの空気が分からないと理解できないのではないかと思いました。

 バーカー博士は、自ら参与観察した事実に基づいて、「一人の『ゲスト』がブーンビルやキャンプKでの週末修練会や『セミナー』で聞くであろう講義の内容を簡単に紹介する」と前置きして、そこで教えられている内容を描写しています。それは正統的な統一教会の修練会の講義ではなく、「オークランド・ファミリー」式のプレゼンテーションということになります。私はこれを「統一原理がカリフォルニアの文化に土着化したもの」と分析しましたが、当時のカリフォルニアの文化は一般に「ニューエイジ」と呼ばれています。Wikipediaによれば、ニューエイジとは「アメリカ合衆国、とりわけ西海岸を発信源として、1970年代後半から80年代にかけて盛り上がった霊性復興運動」とされています。「ニューエイジ」の特徴としては、「反近代、反既存科学、脱西欧文明(禅や道教、チベット仏教などの東洋思想やアメリカ・インディアンの思想、あるいは“異教”的文化への親和性)」「ポジティブ・シンキング(個人に内在する力と可能性の強調)」などが提示されていますが、東洋から来た宗教である統一教会を受け入れる空気が、当時のカリフォルニアの文化にはあったことがうかがえます。次に「ポジティブ・シンキング」ですが、正統的な原理講義に比べて個人の内面にある「罪」をさほど強調しないことが「オークランド・ファミリー」の特徴ではないかと思われます。既存のキリスト教的世界観との違いを強調したかったのかもしれません。その意味では、「オークランド・ファミリー」はキリスト教の伝統を引き継ぐ「宗教団体」というよりも、「ユートピア的志向を持った社会運動」という特徴が強かったのかもしれません。「オークランド・ファミリー」を通して入教したアメリカのメンバーは、カリフォルニアに特有の「ニューエイジ」的なものに魅力を感じた人々であり、他の国や他の地域の統一教会に出会っていたら、入教しなかったかもしれません。

 続いてバーカー博士は、統一教会の信条と実践に対する理解の、運動内部における「縦的差異」について論じます。これは、伝道された初期の段階の、統一教会について「ほとんど無知」な状態から、教育の過程を通過して知識を蓄え、教義や創設者について「よく知っている状態」までの、「知識および理解度」の差異のことを言います。そして、教会内における社会的地位が上がるほど、より多くの知識を獲得するようになるのだということをバーカー博士は説明しています。これはある意味、どんな組織でも当たり前のことではないかと思いますが、とりわけ統一教会においては、「初めから正体を明かさない」「教会に関する情報を最初の段階ですべて開示せず、相手に与える情報を小出しにしながら情報をコントロールしている」などと讒訴され、それが反対派から「不実表示」に当たるとして、違法な伝道の根拠として主張されているという問題がありますので、微妙な問題ではあります。宗教的真理というものは、相手の理解度に応じて少しづつ「奥義」を解明していくということは、統一教会のみならず伝統的宗教にもあるのであり、これを一律に「違法」とか「不当」ということはできないと思います。しかし、人を伝道しようとする際には、自分が所属する教団の名前を明かすことが、今の時代には最低限のルールとして求められているのではないかと思います。西洋においても日本においても、過去においてにこうしたことが行われなかった例があるのは事実のようです。

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