実況:キリスト教講座21


キリスト教と日本人(9)

 キリスト教と日本人が出会う第二回目のチャンスが、明治維新から第二次世界大戦の終戦までの期間です。1873年に明治政府が基督教禁止令を撤廃いたします。そして1889年には大日本帝国憲法(明治憲法)が発布されます。この明治憲法は、ヨーロッパの憲法を真似して作られたものなので、基本的に近代憲法の要件を備えなければいけないということで、宗教の自由は第28条で保証されていました。ですから、このときから憲法において宗教の自由を保証する国に、日本は一応なったということになります。江戸時代に比べれば、キリスト教を広めることのできる社会的環境は整いましたので、日本にどんどんプロテスタントの宣教師がやってきて、宣教を始めるようになります。

 日本のプロテスタント教会は、1872~1889年にかけて全般的に拡大し繁栄しました。改宗者は急激に増え、未来の日本プロテスタント教会の大まかな輪郭は出来上がりつつありました。この17年間で、日本のキリスト教徒の人口は約3万人に成長しました。成長して行く教会の行く手を阻むような重大な障害はないかに見えたわけです。 これが初期におけるキリスト教と日本の「幸せな出会い」ということになります。最初の十数年間はキリスト教の伝道は順調に進んだということです。

 この明治初期のキリスト教躍進の背景としては、三つの要因を挙げることができます。まず、宣教する側が大変熱心であったということです。当時、アメリカからたくさんの宣教師が来たんですが、当時のアメリカは「大覚醒」といって、信仰復興運動が熱烈に起こっているときでありました。ですからアメリカ国内で信仰復興の集会が行われ、伝道が行われ、その宣教熱が世界に向かって行きました。そこに「日本が開国した」というニュースが伝わり、多くのアメリカのクリスチャンたちが、未開の地・日本に宣教に行こうということでどんどんやってきたわけです。そのように宣教する側の熱心さを挙げることができます。

 日本伝道の志に燃えるプロテスタントの宣教師たちは、すでに禁教下で英語や洋学の教育者として来日し、日本の若者を伝道していきました。明治の初期しばらくはキリスト教は禁教だったんですが、開国はしたので、英語を教えるアメリカ人の先生は歓迎したわけです。その人たちは表向きは英語の先生ということで日本に入ってきて、密かに自分の弟子たちにキリスト教を教え始めたということです。初期のキリスト教の集団には「バンド」という名前がついていますけれども、バラやブラウンの英語塾から横浜バンドが生まれたとか、ジェーンズの熊本洋学校から熊本バンドが生まれたとか、札幌農学校のクラーク博士の影響で札幌バンドが生まれたというように、教育者たちが若者たちにキリスト教を教えるという形で最初の伝道はなされたわけです。

 次にそれを受け入れる側でありますが、実は明治初期にキリスト教徒になった有名な人たちというのは、ほとんどが没落士族の子弟たちだったわけです。すなわち世の中が変わって、士農工商の時代ではなくなったので、武士という特権階級がなくなってしまいました。武士の中でも、薩長出身の人々は政府の役人になる道がありましたが、それ以外の藩の武士たちはただ職を失っただけですから、自分の身をどう立てていくかといえば、学問するしかなかったわけです。そこで英語を学ぼうということになり、キリスト教に触れたときに、彼らは一種のアイデンティティー・クライシスに陥っていたわけです。つまり、古い社会体制が崩れて、武士の誇りはあるけれども身分はないという状態の中で、新しい世界に向けて何を学んで行ったらよいのかという、求める気持ちがあった。そこにキリスト教という新しいものが入ってきて、武士たちのアイデンティティー・クライシスを埋めるような新しい理念としてキリスト教を受け入れていった、ということになります。

 さらに、宣教師たちが持ちこんだピューリタンの禁欲的な倫理というものは、彼らがもともと持っていた武士道の精神と類似していました。ピューリタンのキリスト教徒はとても禁欲的で、自分を修練するという性格が非常に強いです。ですからクラーク博士が教えたキリスト教も大変禁欲的で、修練型のキリスト教でした。これと彼らがもともと持っていた武士道の精神がマッチして、とても受け入れやすいものとして写ったわけです。

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 日本のプロテスタント発祥地としての三大バンドということで、横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドがよく語られます。それぞれ代表的な指導者として、植村正久、海老名弾正、内村鑑三などの名前が挙げられますが、この表にあるような教派を背景として、それぞれの教団や学校を創っていったということを大まかに理解してくだされば結構です。

 このように、初期はキリスト教は順風満帆と言いますか、どんどん伸びていきます。このままずーっと伸びていれば、おそらくキリスト教人口はもっと増えていたであろうと思いますが、やはり途中で暗雲が立ちこめると言いますか、よくない状況が起こってくるわけです。それが何かというと、ナショナリズムの台頭とそれによって始まったキリスト教バッシングという状況です。

 当時の明治日本の状況は、約220年にわたる鎖国によって、文明が非常に遅れていました。そこに西洋文明が入ってきて、その圧倒的な力を見せつけられて、とにかく日本の国是は、文明開化だ、富国強兵だ、殖産興業だということで、西洋列強に追いつき追い越せということでした。そのためには西洋からすべての文化・文明を吸収しなければならないというのが、基本的な日本の立場でした。ですから、西洋からすべてのものを学ぶ中で、その一つとしてキリスト教も吸収していったということになります。

 最初の十数年間はそれで良かったわけですが、それが一段落するとどのように考え方が変わっていったかというと、外的文明は受け入れたとしても、内的文明まで受け入れる必要はないという考え方が出てきます。では、近代化において外的文明とは何であるかというと、それはもちろん科学技術であり、議会制度であり、病院であり、学校であり、これらは近代化には絶対に必要です。内的文明とは何であるかというと、それは精神文明であり、やはりキリスト教ですが、それまで受け入れる必要はないんではないかという考え、これを「和魂洋才」と言います。和の魂と洋の才能ということですが、これは西洋の科学技術は学ぶけれども、魂まで西洋に明け渡す必要はないんじゃないか、日本には日本古来の「大和魂」というものがあるんだから、西洋に魂を明け渡す必要はない、科学技術だけ学べばいいということで、精神的な面における復古主義が起こっていったわけです。

 そして明治政府は、国をまとめるために国民のアイデンティティーを強固にしなければなりませんでした。そこで国を一つにするために、天皇を中心とする国づくりを始めるわけです。ですから、天皇陛下に対する忠誠心を国民のアイデンティティーとする「国体イデオロギー」というものが形成され始めて、その宗教的表現としての「国家神道」というものが確立されていくようになります。日本国民を一つにまとめて国を発展させていくために、天皇は国民の父親であり、それは同時に神道の祭司なんだと位置付けたわけです。これは神道を国家の宗教、いわゆる国教のような立場に立てて国民を教育していくという体制になっていくということです。そうなってきますと、国家神道ならびに天皇陛下に対する忠誠心と、キリスト教信仰は相容れないものとなってくるので、キリスト教に対する風当たりが強くなり、キリスト教に対するナショナリズムを背景としたバッシングが始まっていくという構造になっていきます。

 ここで特に、天皇陛下とキリスト教の関係ということで、非常に厄介な問題がキリスト教に突きつけられるようになります。それは何かというと、天皇陛下とはどういうお方であるかと当時の日本で教えていたかいうと、「現人神」であられるということです。「現人神」というのは、神が人となられた方であるという意味です。ではキリスト教信仰の本質とは何でしょう? イエス・キリストとは誰かというと、神が人となられた方だということです。では、「日本人であると同時にキリスト教徒であるというあなたは、どっちを現人神だと思っているんだ、天皇陛下が現人神なのか、イエス・キリストが現人神なのか、どっちなんだ!」と言われたら、キリスト教徒は困るわけですね。信仰を否定するわけにもいかないし、国体イデオロギーを否定するわけにもいかないので、どっちつかずの回答をせざるを得なくなるわけです。このような、キリスト教に対する挑戦が起こるようになってきました。

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