実況:キリスト教講座20


キリスト教と日本人(8)

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 ギュツラフ自身は日本に入国することはできませんでしたが、その志を受け継いだ人がベッテルハイムという人です。このベッテルハイムもやはり琉球の伝道を通して日本の開国に貢献するようになります。

 バーナード・ベッテルハイム(1811-1870)は、もともとはハンガリーのユダヤ人だったんですが、キリスト教に改宗して宣教師になりました。1845年にベッテルハイム夫妻は琉球への宣教師としてまず香港に到着し、その当時ギュツラフが香港の民政長官を務めていたので、夫妻はギュツラフに迎え入れられるわけであります。そして半年ほど香港に滞在し、日本人の漂流民から彼も日本語を学んで、ギュツラフの夢であった日本宣教のバトンをベッテルハイムが引き継ぐことになります。それもやはり沖縄からということで、1846年5月にベッテルハイム一家が那覇に上陸します。

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 ここからベッテルハイムの琉球伝道が始まります。彼は琉球王府から最初は入国を拒否されるんですが、やっぱり少し緩かったんでしょうね、強行上陸いたします。そして那覇の護国寺を住居として、8年余り滞在します。彼はよく眼鏡をかけて犬を連れて散歩していたので、「波の上の眼鏡」(ナンミンガンチョウ)とか「犬眼鏡」(イヌガンチョウ)とか当時の人々から呼ばれました。

 彼は医者だったので、迫害の中で伝道と医療活動を熱心に継続しながら、人々の信頼を集めていき、キリスト教を琉球の地に根付かせていく努力をします。その中で聖書を琉球語に翻訳して、このとき初めて神様に対して「カミ」の訳語が採用されるようになりました。実はザビエルが最初に宣教したときに、いわゆる神様、Godに対して日本語の何を当てようかということで、最初に当てられたのがなんと「大日」という言葉だったんですね。「大日如来」の「大日」です。宇宙の根源ということで「大日」という概念があって、唯一神とか創造主という概念は日本になかったので、「大日」がそれに該当する言葉だということで、ザビエルは「大日を拝みなさい」と言いながらキリスト教を広めていったんですね。ところが、仏教徒と話をする中で、彼らの信じている「大日」がキリスト教の神と全く違うものであるということに、ザビエルは気が付くようになるんですね。そうすると「やっぱり大日を拝むな。ほかの言葉を使っちゃいけない。デウスと言いないさい」ということで、デウスという言葉が日本語に訳されないままきたんですが、このときに初めて「カミ」という言葉が採用されるようになりました。

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 実はこのベッテルハイムの宣教とペリーが非常に深く関わっておりまして、日本を開国させたマシュー・ペリーという人は、沖縄を起点として日本を開国させていくんですね。1853年に日本開国の使命を帯びたペリーの艦隊が那覇に入港します。そしてペリーは活動の中継地として5回も琉球を訪問しておりまして、その間ベッテルハイムがペリーを助け、臨時通訳として活躍いたしました。そして「いまの琉球の状況がどうで、その上に薩摩藩というものがあって、その上に徳川幕府がある」というような日本に関する詳しい情報をペリーに提供したわけです。その上で、ペリーがこれから日本本土の開国を目指してアメリカ大統領の書簡をもって行こうということで、沖縄を基地として日本が開国されていくことになります。

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 こうして、1853年7月にペリーが蒸気船4隻を率いて浦賀沖に来航して、日本に対して開国を要求したというのは皆さんも日本史で習ってご存知のことと思います。ではなぜアメリカは日本に対して開国を迫ったのかというと、経済的動機というのがまずあります。当時、アメリカは捕鯨を行っていました。この捕鯨船の食糧と水の補給地として、ぜひ日本の港を使わせてほしいということで、「鎖国なんかしてないで国を開いてね」というのが経済的な理由でした。

 しかし一方で、ペリーという人は熱心なクリスチャンであったので、日本に再びキリスト教を広めるという宗教的な動機もあったと言われております。ですから、日本へのキリスト教宣教の門戸を開くということも重要な目的でした。そしてこのペリーと一緒に首席通訳官として行ったS・ウィリアムズという人は、例の「モリソン号事件」のときの乗組員だったんですね。この人は日米交渉において活躍した人物でありますが、もともと宣教師であったので、日本を開国させるということはキリスト教を広めるということも大きな動機の一つとなっていたわけです。

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 このようにして日本が開国しますと、今度は隠れキリシタンとして潜伏していた人々が発見されるという事件が起こってきます。日本が門戸を開いたということを聞いて、カトリックのパリ宣教会からプチジャンという宣教師が長崎にやって来るんですね。この人は「大浦天主堂」を建てた人でありますが、これが現存する日本最古のキリスト教会と言われております。さて、1865年3月17日にプチジャン神父がこの大浦天主堂の祭壇前の床にひざまずいて祈っていると、数人の男女が神父に近づき、耳に口をよせて、以下のようにささやいたわけです。「ワタシノムネ、アナタノムネトオナジ」「サンタマリアノゴゾウハドコ?」

 この「ムネ」というのは、宗教の「宗」という字ですね。つまり、「私の宗教はあなたの宗教と同じです」と言いながら日本人の数名の男女が神父様のところにやってきたということですから、「私たちはキリスト教徒です」ということを告白したわけです。神父としては、この日本においては二百数十年前にキリスト教は滅びたと思っているわけですから、まさか隠れキリシタンの末裔がいるなんて思っていないわけですね。そこに、地下教会でずーっと信仰を保っていた人たちが現れて、「同じ信仰を持っている」と言ったわけです。半信半疑で聞いていると、「聖マリアの像はどこにありますか」と聞いたので、間違いなくのこの方々はカトリックの信仰をずーっと保ってきた人たちだということに気付いて、7世代250年ぶりに潜伏していたキリシタンが宣教師と出会うという劇的なことが起こったわけですね。この話は「信徒の再発見」ということで、世界中にキリスト教宣教史上における一つの奇跡として伝えられるようになります。日本にはこういう素晴らしい信仰の証しもあるということなんですね。

 ところが、開国したと言っても、徳川幕府はキリシタン禁制を棄てたわけではありませんでした。当時の状況としては、日本に居留している外国人がキリスト教を信じるのは構わないけれども、日本人がキリスト教を信じることは禁じられていたわけです。ですから、この神父のもとにキリシタンたちが通っていることが分かると、日本の信徒たちに対する最後の迫害が始まります。これが1867年の「浦上四番崩れ」と呼ばれるものです。多くの浦上の信徒たちが捕えられ、拷問され、流罪になったわけです。この事件の翌年に明治維新となっておりますので、「最後の迫害」「最後の殉教者」ということになります。

 さて明治政府になりまして、1872年11月から岩倉具視を中心とする使節団がいわゆる不平等条約を改正する交渉のため米国と欧州諸国を訪問いたします。しかし、行く先々で何と言われたかというと、「キリシタンを迫害し、信教の自由を認めない野蛮な国とは条約を結べない」と非難されたわけです。このころ明治政府は江戸幕府の方針を継続しており、明治になってもキリスト教の禁教は解かれていなかったわけです。しかし海外に出て初めて、これを改めないと条約を結んでもらえないということに気付いて、1873年2月24日に、太政官布告によってキリシタン禁制の高札が撤去され、ようやく禁教令が廃止されたわけです。

 結局、日本においてキリシタンに対する迫害が止んで、信教の自由が認められるようになったのは、日本人自らが「信教の自由」に目覚めたのではなく、外圧、すなわち外国からの批判によるものだったわけです。 

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