第十章「結論」(前半)
このシリーズはアイリーン・バーカー著『ムーニーの成り立ち』のポイントを要約し、さらに私の所感や補足説明も加えた「書評」です。今回は第十章の「結論」の前半部分を要約して解説します。
この章は、これまで論じてきた内容のまとめ的な性格の強い章ですが、大切なポイントを抜粋してお伝えしたいと思います。この本の目的はそもそも、「統一教会の修練会では洗脳が行われている」という噂の真偽を確かめることでした。その点に関して、以下のような端的な結論をバーカー博士は述べています。西洋の大多数のメンバーの入会において、統一教会の環境が重要な役割を演じていることは明らかであるけれども、それは決して抵抗できないものではない。ムーニーが勧誘しようとする大部分の人々は、運動に参加することを完璧に拒否できるし、ムーニーの提供する選択肢もまた、抵抗できないものではない。それでは同じ統一教会の修練会に参加しても、運動に加入する人と加入しない人に分かれるのはなぜかと言えは、ゲストが「その人とともに」持ってきた個性やこれまでの体験が顕著な役割を演じているに違いない、ということになります。すなわち、入教するか否かを決定する主たる原因は、統一教会の教えや修練会の環境にあるのではなく、それに参加した人々がもともと持っている特性にあるということなのです。
バーカー博士は、統一教会の世界観やムーニーの考えていることに対して、ときとして驚くほどの内在的・共感的理解を示す一方で、ときとして痛いほどにバッサリとわれわれの本質を切って棄ててしまうような、面白い二面性を持った人物です。この章はむしろ後者の面が突出している部分であると言ってよいでしょう。バーカー博士は次のように言います。
「青春は理想主義と、反抗と、実験の時代である。たまたま恵まれた中産階級の出身であれば、理想を追求しながら、自分自身に対して贅沢を禁止するという贅沢をするだけの余裕がある。青年期の健康を享受し、差し迫った責任からも解放されていれば、物質的な利益を放棄することができる。それは少なくとも、その人がばかげた幻想を捨てるぐらいまで『成熟』し、落ちついて、伝統的な社会の営みや価値観を受け入れ、そして恐らくそれらを支持するまでの間であるが。」
理想主義的な若者がムーニーになる動機をやや批判的に突き放してとらえているのですが、自分の若き日々を振り返ると、あながち否定できない気もします。
バーカー博士は、①運動の究極的な目標のビジョンと、②その目標をもたらすと信じられているより当面の手段の関係について、統一教会の信仰を「一方で超越的な目標を掲げながら、他方で世俗的な手段を用いるというこの奇妙な組合せ」と分析しています。統一教会の目標は地上天国建設なので、それは常識的には到底実現不可能な「超越的目標」と言えます。それが天変地異が起こって地球が刷新されるとか、神の直接的介入や奇跡によって実現されるというのであれば、実現の手段も超越的であり、ある意味で一貫性があります。しかし、統一教会は超越的目標を掲げながらも、それが奇跡的出来事によって実現されるとは信じておらず、万物復帰と伝道、そしてさらには各界に対する渉外活動を通して、常識的で地道な方法によって実現されると信じているところが、バーカー博士には「奇妙な組合せ」に見えるのだということです。自分の宗教についてそのような見方をしたことがなかったので、客観的な宗教社会学者からはそのように見えるのだ、と認識を新たにした思いがしました。
バーカー博士は、統一教会とは①何を究極的に目指していて、②どのような手段によってそれを成し遂げようとしている団体なのか、を予断や偏見によることなく、しっかりとした調査に基づいてかなり正確に描写しています。われわれは個人の完成と地上天国の実現を両方目指しているけれども、全体目的を離れて個体目的だけを追求する傾向にはないことをきちんととらえていますし、地上天国完成の手段が、一つの規範としてわれわれの行動をどのように律しているのかもとらえられています。客観的な立場の宗教社会学者が、信仰を持たずに外側から見たら統一教会はこのような団体に見えるという、まさにお手本のような記述であると思います。
バーカー博士がこのような整理をする目的は、①と②の両方を信じ、②によって①が次第に成し遂げられていくということを信じることのできる人だけがムーニーになり、信じられない人はムーニーにならないというメカニズムを明らかにするためです。われわれの信仰の構造を理解する上では重要な記述であると思います。
続いてバーカー博士は、人がムーニーになる動機を、「プル」と「プッシュ」の観点から描いています。ある若者がそれまでのライフスタイルを棄てて、統一教会の信仰生活を始めることを決意するということは、その力学の第一要素として、統一教会の魅力に引き付けられたという側面がなければなりません。これはプル、すなわち「引き付ける」要素であり、統一教会のどのような側面が英国の若者たちに魅力的に映ったのかが描写されています。これが「ムーニーの選択」という一つのチョイスとなります。
入教を決定づける第二の要素は、これまでの生活に対する幻滅、不満、不安、絶望などになります。こうしたものを一切持たない100%幸福な人というのは実際には見出し難いでしょうし、たとえいたとしても統一教会に入教するとは考えられません。これはプッシュ、すなわち「押し出す」要素であり、英国の若者たちが一般社会に対してどのような(主にネガティブな)感情を抱いているかを典型的に描き出したものです。それは個人的な体験も含まれるでしょうし、社会全般に対する漠然とした不満や不安もあるでしょう。すなわち、一般社会に対してある程度の「不適合」を起こしていなければ統一教会には来ないだろうということなのですが、ムーニーの場合には、あまりにも世俗化されて霊性や宗教性の欠如した一般社会に対する不適合という側面が強いようです。これが「非ムーニーの選択」というもう一つのチョイスとなります。
この二つを天秤にかけて、「非ムーニーの選択」よりも「ムーニーの選択」の方が魅力的で生き甲斐のある人生であると判断する時、人はムーニーになるのだということです。いかにも社会学者らしい分析ですが、入教を決断する心理をかなり的確にとらえていると思われます。
バーカー博士の「プッシュ」の描写には、1970年代の西欧社会という時代的・文化的特徴が色濃く表れています。その時代は一部の若者たちにとっては暗く、矛盾に満ちた、絶望的な世界に映りました。とりわけ理想主義的な若者たちにとっては、一般社会は住むに堪えない社会だったのです。それに対する若者たちの反抗の形の一つが、左翼運動でした。これは日本でも学生運動として起こりましたので、ある程度の年齢の方は理解できると思います。しかし、左翼的な学生運動が挫折すると、次に起こったのは「カウンター・カルチャー」運動でした。その代表的なものが米国のカリフォルニアで起こった「ニュー・エイジ」と呼ばれる運動です。しかし、これもやがては若者たちに大きな失望を引き起こして衰退していくことになります。
バーカー博士は、左翼運動にせよ、カウンター・カルチャーにせよ、ムーニーにせよ、理想主義的な若者たちが一般社会に対する幻滅感を抱いて、自己の充足や社会の改革を求めて飛びついたという点においては、同様の「プッシュ」が働いていたと分析しています。しかしながら、ある者は左翼運動の闘士に、ある者はヒッピーに、ある者はムーニーになる理由は、「プル」の部分、すなわちその運動が持っている魅力が、どれだけその個人を惹きつけるかによって差別化されるのだと説明しています。
「ムーニーの選択肢」という小見出しの下で、統一教会の提示する選択肢が一般社会と比べてどのように魅力的なのかが描写されています。これはあくまで、統一教会の信仰を持つ人にとってどのような魅力があるのかを描写しているのであり、すべての人にとってそのように感じられるわけではないことはしっかりと抑えられているのですが、ここまで統一教会の魅力を内在的にとらえているのは見事です。ともすれば反対派からは「ムーニーの宣伝をしている」と批判される可能性のある記述であることを十分に承知しながらも、信仰を共有しない部外者として、なぜ若者たちが統一教会に魅力を感じるのかを真摯に探究した結果と言えるでしょう。それは同時に、どのようなタイプの人々に対して統一教会はアピールしないのかも、描き出すことになります。バーカー博士による、ムーニーになりそうな人とそうでない人の特徴を簡潔に列挙すると以下のようになります。
ムーニーになりそうな人:①「何か」を渇望する心の真空を経験している人、②理想主義的で、保護された家庭生活を享受した人、③奉仕、義務、責任に対する強い意識を持ちながらも、貢献する術を見つけられない人、④世界中のあらゆるものが正しく「あり得る」という信念を持ち続けている人、⑤宗教的問題を重要視しており、宗教的な回答を受け入れる姿勢のある人々。
ムーニーになりそうもない人:①宗教問題や社会問題に関心がない人、②神が存在するという考えを全面的に否定する人、③聖書が神の啓示であることを否定する人、④特定の信仰や世俗的なイデオロギーを堅く信奉している人、④すでに人生に明確な目的を持っている人、⑤物質的な成功を収めることに関心のある人、⑥自分自身の内的意識に集中するために世俗的な追求から身を引くことに関心のある人、⑦幸福な結婚をしているか、ボーイフレンドやガールフレンドとの安定した満足な関係がある人。