書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』14


 櫻井義秀氏と中西尋子氏の共著である『統一教会:日本宣教の戦略と韓日祝福』(北海道大学出版会、2010年)の書評の第14回目である。

「第Ⅰ部 統一教会の宣教戦略 第2章 統一教会の教説」のつづき
 堕落論の批判を終えた櫻井氏は、『原理講論』の順番に従って終末論、メシヤ論の解説に入っていくが、これら二つの解説は非常に簡単で特に見るべきものはない。しかし、復活論の分析に当たっては、櫻井氏独特の統一教会史に対する理解が展開されていて興味深い。とは言っても、それは誤解もしくは曲解に基づくものであるのだが。

 復活の定義の部分で彼は、「イエスが墓に葬られ、三日の後に弟子達の前に現れた復活や、再臨の日にキリストに結ばれて死んだ人達が復活し、生き残っているものが雲の中に引き上げられる(推挙)といったキリスト教の伝統的な復活論は一切顧みられていないことに注意したい。」(p.48-9)と述べている。ここでの櫻井氏の原理批判のスタンスは、キリスト教の伝統的信仰を基準としている。ただし、彼はそれを信じているわけではないので、宗教的信念に基づく神学的批判というわけでもない。櫻井氏のこの部分の理解はまだ甘いと言ってよいだろう。統一原理はキリスト教の伝統的な復活論を「顧みていない」のではなく、それに挑戦し、否定しているのである。それはイエスの肉体が復活したことも、再臨の時に死人が復活することも否定しているのであり、復活の概念そのものを再定義しているのである。

 櫻井氏は、「この復活論には統一教会のコスモロジーがある意味で凝縮されている」(p.50)と言っている。正確には、統一教会のコスモロジーは創造原理の第6章で包括的に説明されており、復活論はその応用展開に当たるのだが、上記の櫻井氏の指摘は間違いとは言えない。しかし、その後の議論は櫻井氏の一方的な思い込みであり、現実を反映していない。彼は以下のように述べている。
「日本の統一教会信者達は、日本宣教の初期にはおそらくここで説かれている霊魂観が了解できずに、地上人の復活に関わる地上天国実現という歴史的な摂理に邁進した。実際に統一運動には政治・経済的な側面が濃厚で、宗教運動だけでは取り込めない大学生を宣教できたのである。ところが、統一教会の創始者や韓国の幹部達の発想には、最初から、現世の人間に憑依する様々な霊人(聖徒、善霊、悪霊)の働きがあり、それなしには摂理が進まないこと(協助)も強調していた。日本では1980年代に資金調達ミッションが強化され、霊能と商品をセット販売するいわゆる霊感商法が日本の幹部によって開発され、献金強要が問題化したが、このやり方の方が統一教会としては本筋であったとさえいえる。1960、1970年代に学生運動の残り火を感じながら統一教会に入信した若者にはこのような霊魂観は無縁のものだったが、彼らも韓国の統一教会に親しみ、中高年者の宣教に因縁や霊能を用いるようになって、ようやく統一原理のシャーマニズム的基底が了解されたのではないか。統一教会の信者にとって、霊界の存在は極めて大きい。」(p.50)

 どうも櫻井氏の日本統一教会史の理解には、顕示的な学生運動であった1960年代と70年代から、正体を隠して「霊感商法」を行う組織宗教へと姿を変えた1980年代以降という基本的な図式があるらしく、無理やりそれに当てはめて教義や神学の問題も理解しようとする。櫻井氏が学生時代にキャンパスで見かけた原理研究会のメンバーの姿と、壮年壮婦の多い1980年代以降の統一教会のイメージが合わないためのこのような発想をするのだと思うが、これは単なる印象論に過ぎず、両方の時代の信者たちの信仰を実証的に比較検討したわけではない。

 統一教会初期の信仰に関しては、歴史編纂委員会編著の『日本統一運動史』(光言社、2000年)に詳しく記載されている。1960年代から1970年代にかけて文鮮明師は日本を何度も訪問しており、その際に信徒たちに対してみ言葉を語っている。こうしたみ言葉の中には「霊界」という言葉がたびたび出てくるし、日本宣教を開拓した崔奉春宣教師の講話、草創期の信者である春日千鶴子さん、江利川安榮さん、神山威氏、小山田秀生氏などの証しの中にも「霊界」という言葉が出てくる。

 1966年5月に韓国で『原理講論』が出版され、それに基づく「原理大修練会」が日本において1967年6月に全国から105名の責任者クラスを集めて行われている。そして1967年10月2日には日本語版の『原理講論』が発刊されている。その中には復活論も当然含まれているわけであり、初期の統一教会の信徒たちは非常に熱心に原理を勉強したわけだから、1960年代の初期の信徒たちが復活論で説かれている霊界について了解していなかったという主張は、まったく根拠がないのである。

 「はじめに」でも触れたが、櫻井氏の根本的な誤解は、1960~70年代の統一運動が新左翼の学生運動と似たようなものであったという認識にある。これは根本的な間違いである。新左翼は唯物論に基づく政治運動であったが、統一運動は初めから宗教的な運動であった。したがって、このころから日本の統一教会信徒は霊界の存在を信じていたのである。宗教社会学者であるはずの櫻井氏になぜそのことが理解できないのであろうか? 

 それは、『ムーニーの成り立ち』の著書であるアイリーン・バーカー博士の研究と比較してみることによって明らかになる。バーカー博士が研究対象としたムーニーは1970年代の西洋の若者たちであり、櫻井氏が姿を見かけたという1970年代の原理研究会の若者たちとほぼ同世代の者たちである。櫻井氏は1961年生まれなので、大学生活を送ったのは1970年代の最後から1980年代初めであると思われる。このころは大学のキャンパスの中で思想集団としての原理研究会が活発に活動していた時代であった。バーカー博士のフィールドワークによる研究もまさにこのころに行われた。したがって、洋の東西は違うけれども、この時代特有の大学生の文化を体現していたという点では共通点がある。

 バーカー博士は、人がムーニーになる動機を、「プッシュ」と「プル」の両方の観点から分析している。プッシュとは「押し出す」要素であり、これまでの生活に対する幻滅、不満、不安、絶望などを指す。一般社会に対してある程度の「不適合」を起こしていなければ統一教会には来ないだろうということだが、これは左翼運動に走る若者たちともある程度の共通点がある。1970年代の西欧社会は、一部の若者たちにとっては暗く、矛盾に満ちた、絶望的な世界に映った。とりわけ理想主義的な若者たちにとっては、一般社会は住むに堪えない社会だった。それに対する若者たちの反抗の形の一つが、左翼運動だった。左翼的な学生運動が挫折すると、次に起こったのは「カウンター・カルチャー」運動だった。その代表的なものが米国のカリフォルニアで起こった「ニュー・エイジ」と呼ばれる運動でである。しかし、これもやがては若者たちに大きな失望を引き起こして衰退していくことになる。

 しかし、こうした「プッシュ」だけに注目していたのでは、「なぜこれらの若者たちの一部はムーニーになり、他の者たちはアングリカンや、毛沢東主義者や、自由の闘士や、パンク・ロッカーや、シンナー遊びをする者や、サッカーのフーリガンや、アマゾン川の上流を探検する者になるのかを説明するのには役に立たない」(「結論」より)とバーカー博士は論じる。すなわち、こうした社会背景に「プッシュ」されたとしても、それだけで全員がムーニーになるのではなく、「プル」すなわち「引き付ける」要素がなければ、ある若者がそれまでのライフスタイルを棄てて、統一教会の信仰生活を始めることを決意するということはあり得ないということである。これは要するに、統一教会のどのような側面が英国の若者たちに魅力的に映ったのかということだが、バーカー博士によれば、それはまさに宗教的な魅力であった。

 1960年代と1970年代の日本の大学生たちも、社会の矛盾に絶望して反抗的になったということは確かにあるだろう。そして多くの若者たちは左翼運動に走り、やがて挫折していった。しかし、彼らと同じ時代に、同じ「プッシュ」を受けていた若者たちの中には、左翼運動に関わることを選択せず、原理研究会に入ることを選択した若者たちがいたのである。それは彼らがもともと人生に対する宗教的な回答を求めていたからであり、それに対して統一原理が宗教的な回答を提示したので、それに「プル」すなわち引き付けられて原理研究会に入ったということになる。その宗教的な魅力の中には、霊界に関する教説、すなわち創造原理の第6節や復活論の内容も当然含まれていたのである。

 櫻井氏は1960~70年代の原理研究会を、新左翼の学生運動のようなものであると誤解することにより、その時代と1980年代以降の統一教会の連続性を理解できなくなってしまったのである。それは櫻井氏が、統一教会の宗教的本質とその魅力を理解できなかったからに他ならない。

カテゴリー: 書評:櫻井義秀・中西尋子著『統一教会』 パーマリンク