第九章「感受性性」(後半)
このシリーズはアイリーン・バーカー著『ムーニーの成り立ち』のポイントを要約し、さらに私の所感や補足説明も加えた「書評」です。今回は第九章の「感受性」の後半部分を要約して解説します。
ムーニー候補者の家庭的背景の分析に続いて、バーカー博士はムーニーになるような人がもともと持っている特徴を、宗教的な要因から分析しています。統一教会はキリスト教的背景を持つ宗教団体なのですから、もともと宗教的素養を持った人が統一教会に入る傾向にあるということは当然予想される結論なのですが、これもまた「対照群」との比較によってはじめて客観的な主張としての根拠が示されることになります。「洗脳」や「マインド・コントロール」を主張する人々は、もともと宗教性があったから統一教会に入ったということが立証されてしまうと都合が悪いので、敢えてその部分を調査しようとはしません。バーカー博士の調査によると、統一教会に入った人がもともと神を信じていた割合は、修練会に出ても入会しなかった者よりも高く、修練会に参加していない「対照群」と比較するとはるかに高いことが分かりました。すなわち、もともと神を信じていない人が修練会に参加する確率自体がかなり低く、さらに修練会の中で選別されて、もともと神を信じていた人が統一教会に入っていくという、ごく当たり前の結果が数値によって示されているのです。一方で、統一教会と対照群に共通してみられる宗教に対する態度が、カトリックや英国国教会などに代表される伝統的な宗教に対する幻滅です。
さらに入教者の4分の3以上が、統一教会に出会う以前に霊的または宗教的な体験をしたことがあると答えており、これは一般的なアンケートよりかなり高い数値になっています。これらを総合すると、ムーニーになる人の典型的な特徴は、もともと神の存在を信じており、何らかの霊的・宗教的体験をしたことがあるという意味において、個人として宗教的な素養を持っているけれども、伝統的な既成教会には幻滅しており、特定の教会に所属していない傾向にある、ということになります。同じことを日本で調査した本格的な研究はありませんが、日本人の場合には文化的背景がキリスト教ではないため、創造主としての唯一神を信じていた人の割合は低いと予想されます。しかし、質問の仕方を「神仏、来世、霊的な力」などと日本の宗教性にあった表現にすれば同じような結果が得られるのではないかと思います。私たちが伝道の中で経験するように、やはり宗教的素養を持った人が食口になる確率が高いのです。
バーカー博士は、現代のイギリスには一種の「霊的な欲求不満」があると指摘しています。これは、若者たちには宗教的な欲求があり、そうした内容を友人や聖職者と話したいという願望があるのですが、それが適えられない状況にあるということです。まず極度に世俗化されたイギリスの社会では、自らの宗教的体験を友達に話すことは躊躇されます。教会の聖職者ならそうした話を聞いてくれると思うかも知れませんが、既成教会の聖職者たちは、一般信徒が直接的に神と出会ったというような体験談に対して眉をひそめ、危険視する傾向にあるというのです。統一教会員だけでなく、一般の若者たちもまた、形式化し官僚化した既成教会のあり方に不満を感じています。統一教会の魅力は、個人がそうした体験を話すことを非難しないばかりか、むしろ積極的に奨励し、それに対する意義付けを与えてくれるところにあるのだと言います。それによって「霊的な欲求不満」が解消されるからこそ、若者たちは統一教会に魅力を感じるのです。
また、ムーニーの候補者は理想主義的な「行動の人」である傾向が強く、「何かのために自分の人生を捧げたい」という意識を持った人が多いのですが、一般社会はなかなか若者たちにそのような「生きる目的」や「生き甲斐」を与えてはくれません。そうした若者たちにとって、「メシヤが世界を救済する仕事にあなたも参加できる」という統一教会のメッセージは、非常に魅力的に映ったのです。統一教会は宗教団体でありながら、俗世間を離れて瞑想する団体ではなく、世の中を変えるために積極的に行動する団体です。宗教性と奉仕の精神があり、燃え上がるような生き甲斐を求めている人、まさにそのような人が統一教会にフィットする人だということになります。
そのような人の目から見ると、現在の世界は救いようのない絶望的な世界であり、少なくとも自分が生き甲斐を見つけることの難しい世界であるということになります。そのため、彼らはこの世界を変えるような意義ある生き方に渇望していたときに、統一教会に出会ったのです。したがって、ムーニーになるような人がもともと持っている典型的な「世界観」は、悲観的なものになります。だからこそ、こうした世界を変革するのだという終末論的なメッセージが彼らの心に響くのです。「自分自身の生活基盤もまだ十分に確立できていないのに、世界の問題をどうしようと心配するのは時期尚早で思い上がりだ、頭を冷やせ」と大人は思うかもしれませんが、それはあくまで大人の言い分であり、いつの時代にも理想主義的な若者たちは同じような動機でさまざまな運動に飛び込んでいったのではないでしょうか?
バーカー博士の描くムーニー候補者の像は1970年代のイギリスの若者たちですが、世界の将来を非常に悲観的にとらえているという点において、一種の「終末観」を感じさせます。これは私が青春時代を過ごした1980年代の日本と共通する面があると思います。あのころは「世紀末」が近づいており、東西冷戦の真っ只中であったため、核戦争によって人類が滅びるかもしれないという恐怖はかなり浸透していたように思います。あのころの若者たちの意識に比べると、最近の若者たちの意識はより個人的な事柄に向けられているため、あまり「世界の終末」というようなことを考えなくなったのではないでしょうか? 統一教会の教えの根幹は、終末に再臨主がやってくるというものであるため、社会全体や個人の人生において「終末観」を持つことは信仰を受け入れて行く上で重要な役割を果たしているのではないかと思います。
ムーニー候補者の特徴は、真理や生きがいを求めていたという意味において「探求者」であると言えますが、バーカー博士は「探求者」にもいろいろなタイプがあり、ムーニーになるような人はある特定のタイプの探求者であると分析しています。まず、カリフォルニアにはそれがカッコいいとみなされている「流行としての探求者」が多くいて、そうした人々が集まってサブカルチャーを形成していたというのが1970年代の状況だったようですが、こうした人々がムーニーになる可能性は極めて低いとしています。次に、自己啓発や霊的充足を瞑想などの直接的な方法によって得ようとするタイプの探求者がいますが、こうした人々は統一教会よりもサイエントロジーや「人間性回復運動」に魅力を感じるだろうと分析しています。しかし一方で、ムーニー候補者は世界をよくすることに関心を持っていたものの、政治的な革命を目指して何らかの運動に加わっていたような傾向にもないと分析されています。このように、「流行」「霊的充足」「政治的革命」など、典型的な「探求者」のタイプに統一教会候補者を当てはめようとすると、意外にピッタリとあてはまるものがないことが分かります。
統一教会の目標は地上天国の実現であるのに、ムーニーが政治的なことがらにもともとあまり関心を持っていなかったことに、バーカー博士は驚いています。そして、地上天国を作る具体的な方法に関して、個々のムーニーが明確な回答を持っていないこともバーカー博士を当惑させました。たとえば、「あす首相になったなら何をするか?」という質問に対して、ほとんどのムーニーは具体的な回答ができなかったというのです。このことは渉外を担当する摂理機関にいる私の立場からすれば、ある意味で深刻な問いかけです。私が学生だったころは、自分は末端の信者であり世の中のことをよく知らないので、自分の力の及ぶ範囲のことしかできないが、統一運動のトップの指導層は具体的にどのように地上天国を建設するのかに関する明確な青写真を持っており、それは時代が進み摂理が進展するにしたがって、徐々に具体的な形をとって現れてくるのだと信じていました。おそらく、バーカー博士の質問に対して明確に回答できなかった西洋のムーニーたちも同じような考えだったのだと思います。
しかし、時は流れ、摂理は進んだと言われ、お父様が聖和された後にも、地上天国建設の具体的な青写真というものは見えていません。私が今も統一運動のトップの指導層に入らないことは明らかですが、少なくともそこに触れたり垣間見たりすることのできる位置にいながら、統一運動が全体としてどのように地上天国を造ろうとしているのかは、少なくとも合理的に理解可能な形では提示されていないのです。それができるというのは、いまでも「信仰の論理」です。バーカー博士によれば、統一教会に入会した人々は、初めから反共のイデオロギーを持っていたとか、なにか統一教会の提供するそのものズバリを志向していたというわけではなく、「何かは具体的には言えないけれども、とにかく何かを求めていた」というようなタイプの人が多かったということです。これをバーカー博士は「無意識の適合」と呼んでいるのですが、このことは入教の動機が必ずしも知的で合理的なものではなく、むしろ直感的なものであることを示しています。これは宗教的回心というものが持つひとつの側面であり、「なぜ原理が正しいと思ったのか」という問いかけに対して、私たちが必ずしも合理的な言葉で表現できないことと通じています。