書評「ムーニーの成り立ち」14


第十章「結論」(後半)

 このシリーズはアイリーン・バーカー著『ムーニーの成り立ち』のポイントを要約し、さらに私の所感や補足説明も加えた「書評」です。今回は第十章の「結論」の後半部分を要約して解説します。この章は、これまで論じてきた内容のまとめ的な性格の強い章ですが、そもそもこの本の探求しているテーマは、「人はなぜムーニーになるのか?」です。この章の前半で述べてきたことは、ムーニーになるような若者たちは、もともと社会一般に対して絶望感や欲求不満を感じるとともに、自分の人生に対して方向性の欠如や無意味さを感じており、統一教会が彼らの人生に方向性や意味を提示したので入教するようになったという、考えてみれば至極当たり前の内容でした。こうした感情を抱く若者たちは多いけれども、伝統的な宗教はしばしば官僚的で儀式的になりがちであるため、統一教会のような新宗教に若者たちは惹かれていくというわけです。バーカー博士の立てた問いを非常に単純化すれば、「人がムーニーになるのは、①抗し難い洗脳によるものか、それとも②理性による選択によるものか?」ということになりますが、証拠の示すところによれば、結論はかなり②に近いところにある、ということになります。それではなぜ、「洗脳」という非難がかくもやかましく叫ばれるようになったのかと言えば、それは「私の子供はムーニーによって洗脳された」という方が、「若者が統一教会の信仰を持つことを決心した」というよりも、はるかに良い新聞の見出しになるからである、というバーカー博士の分析は、まさに正鵠を射ていると言えるでしょう。

1976年にフランスでディプログラマーに拉致されるムーニー

1976年にフランスでディプログラマーに拉致されるムーニー

 次にバーカー博士は、「ディプログラミング」と呼ばれる西洋の強制改宗と、「洗脳」の主張の関係について述べます。そこで述べられていることを整理すると以下のようになります。①ディプログラマーたちが「洗脳」理論を主張するのは、西洋では「信教の自由」によっていかなる信仰を選択することも個人の権利として保障されているため、ムーニーが「選択」をしていることをも認めてしまうと、自分たちの活動の正当性や合法性を主張できなくなってしまう。したがって、彼らは「人がムーニーになるのは、選択ではなく強制によるものである」と主張せざるを得ない立場にある。②「ディプログラミング」は常に成功するわけではない。ムーニーが勧誘に失敗するのと同じように、ディプログラマーが棄教の説得に失敗することもある。③「ディプログラミング」の試練を乗り越えて教会に戻ってきた者の中には、信仰に対する疑念を持つようになる者もいるが、多くは試練によって信仰が強められたと感じている。④「ディプログラミング」によって教会を去った者たちは、ディプログラマーを「救済者」と認識して感謝する傾向にあり、同時に自分の両親に多くの苦痛を与え、大金を使わせたことに対する罪悪感を感じる。⑤彼らはまた、ディプログラマーの介入がなければ決して離脱しなかっただろうと主張する傾向にある。これらは、日本における強制改宗の状況と非常によく似ていると言えます。バーカー博士の記述で面白いのは、両親や友人など、もともとその人を良く知っていた人々がなぜ「洗脳」を信じるようになったかと言えば、統一教会に入ることによって真面目になりすぎてしまったという理由が挙げられている点です。これまでどんなに自分が注意しても直らなかったその人の悪癖が、信仰を持つことによってなくなり、劇的に変わった姿を見て「洗脳」に違いないと感じたということです。

 バーカー博士は、「洗脳」の議論がなぜ両親に受け入れられるようになった一つの有力な理由は、「洗脳論」を学問的に擁護し宣伝する専門家の存在であるとしています。彼らは多くの論文を執筆したり、世界中を旅して両親や反カルト主義者たちの集会で講演したり、法廷で「洗脳説」の正しさを専門家として証言したりしています。バーカー博士がこの本で試みたのは、こうした専門家の議論に反論することでした。しかしバーカー博士は(公平にも)「洗脳説」を両親が信じるようになった原因の一端はムーニーの側にもあると主張します。それは統一教会の信者やリーダーたちが、息子娘の安否を心配している両親の心情に配慮せず、ときには両親に対して極めて冷たい対応をした事実があったからです。心配した両親が何千マイルも旅して息子娘に会いに来たにもかかわらず、「ディプログラミングの危険がある」ということで会わせてもらえなかったケースが紹介されています。そしてたとえ両親と話すことができたとしても、信仰の初期においては、信者たちは往々にして自分の信仰についてうまく説明することができません。バーカー博士が第三者として観察した時には完全に正気であると思われたメンバーも、両親との対話となると感情的になったり、妙に意固地になったりするケースがあったようです。そうした姿を見て両親は、「この子は完全に変わってしまった。洗脳されたに違いない」という確信を持つようになったということです。子供が親から自立しようとする青年期の親子関係というものは、たとえ宗教の問題が絡まなくても難しいものです。親離れしようとする子供と、子離れできない親が対立すれば、親がこの対立の原因は宗教のせいだと思うのも無理はありません。こうしたことは、少なからず日本においてもあったと思われます。そうした相互不信に満ちた親子関係の中で、「洗脳論」が説得力を持つようになっていったのです。

 この本もいよいよ終わりに近づいてきたところで、バーカー博士は「人はなぜムーニーになるのか?」という問いに対する結論を出そうと試みています。その問いに対する答えの一つの究極の主張が「洗脳」であり、その対極にあるもう一つの答えが「合理的な選択」ということになりますが、バーカー博士は「洗脳説」を否定しつつも、それでは「完全に合理的な選択」といえるのかと言えば、そうは言えないと評価しています。ここで言う「完全に合理的な選択」とは、ムーニーになることのメリットとデメリットをすべて列挙して天秤にかけ、計算し尽くしたうえで結論を出すというようなイメージですが、実際にはそのように冷静な態度で宗教的回心を体験する人はいないわけで、誰もが多かれ少なかれ情的な感動や非理性的な体験などを通して入教を決意しています。つまり、ある程度「ハイ」になった状態で決断を下しているので、それを理論的に説明してみろと言われてもできない場合が多いということです。

 バーカー博士は社会学者ですが、社会学を万能と考えているわけではなく、その研究が示唆する内容にいったいどのような意味があるのかに関しても、かなり本質的な問いを発しています。それは次のような言葉に表れています。「もしあるムーニーが、自分が統一教会に入教した理由は、神が明確な奇跡を示してくれたからだとか、神が生涯を通じて導いてきて、会員になるための準備をしてきたと主張した場合に、ほかの誰かが、その原因は彼の社会的背景に見いだされるとか、彼は単に洗練された説得技術の犠牲になったに過ぎないなどと示唆することに、いかなる正当な理由があるのだろうか?」そうした限界を認めつつも、バーカー博士は対照群と比較しつつ、どのような属性を持った人がムーニーになりやすいのかをかなり正確に分析していると言えます。それを簡単に要約すると、社会的良心を持つ宗教的指向性の強い「実行家」である、ということになります。これが一般的な統一教会人の実像から遠くないことは、多くの人が納得するのではないでしょうか。

 この本のそもそもの目的は、「人はなぜムーニーになるのか?」という疑問に答えることでした。そしてこの最後の箇所でバーカー博士が下した結論は、以下の言葉に集約されます。「ムーニーの説得力が効果を発揮するのは、ゲストがもともと持っていた性質や前提と、彼に対して提示された統一教会の信仰や実践の間に、潜在的な類似性が存在するといえるときだけだ」。一つの事例として挙げられているウィリアムという青年のケースでは、もともと彼には①神の原理に基づく何かを探していたという個人の特性があり、②世俗的な社会における恋愛や結婚に対して絶望感を抱いていいたという社会的要因(プッシュの要素)があり、③統一教会の提示した祝福とマッチングという選択肢に魅力を感じたという事実(プルの要素)があり、④統一教会の修練会に参加して感動したという環境的要因が、すべて関わっています。

 バーカー博士は、この①個人、②社会、③統一教会の選択肢、④修練会という4つの変数のうち、どれが入教を決定するのかを探求した結果、これら4つの要素が総合的にバランスよく働いた結果として人はムーニーになるのであり、その中のどれか一つが欠けてもムーニーになる確率は著しく低くなるという結論を出しています。いわゆる洗脳論は、①や②や③の要素に関わりなく、どのような人でも④だけの要素で強制的に入信させられてしまうというものですが、そのような事例は一つも存在しないということを根拠に、バーカー博士は洗脳論を却下しています。

 これが入教までの過程、すなわち「入口」の部分の分析ですが、バーカー博士は長期間にわたる参与観察やインタビューを通して、入教した後にも長い時間をかけてムーニーたちが情的にも知的にもいろいろな形で成長していくのを認めています。それは一般に言われているような心を持たないロボットのような生活ではなく、人間としての感受性を持ったままの生活であることは言うまでもありません。その中で、ある者は燃え尽き、ある者は自分の意思で離脱し、ある者は長く運動に残るという選択をそれぞれがしていくのだと結論しています。

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