シリーズ「霊感商法とは何だったのか?」09


霊感商法(5)

シンクレティズムについての事例をいくつか知ってみれば、われわれはそれがある程度必然的に起こるものであること、そして一つの宗教が他の文化圏に伝えられていくときには、ほとんど避け難いものであることが分かるであろう。他の宗教伝統との一切の接触・混合を避け、純粋な宗教伝統を保とうと思えば、それは絶海の孤島か人里離れた山間僻地でひっそりと伝統を保つしかない。しかしそれはキリスト教のように世界中に福音を延べ伝えることを目指す普遍宗教においては有り得ないことである。

他の宗教伝統との習合は、聖典の翻訳という宣教の第一段階において、早くも避けられない問題となる。聖書翻訳の技術は、辞書を使って機械的に一字一句を置き換えていけばできるというものではない。聖書を新しい言語に翻訳するためには、とりあえず訳者はその言語の中に、自分の属する言語と共通の概念があると仮定し、それを探し出すという作業をしなければならない。しかしそのようにして翻訳したとしても、その言葉にはその文化圏で蓄積された多くのニュアンスやイメージがへばりついており、その概念は訳者の意図した意味に「似ている」ものでしかないだろう。すなわち、ある言語の表現にぴったり合う言葉を別の言語で見つけることはできないのであり、それは「神」や「救い」などの無形な宗教的概念においてはなおさらである。

キリスト教が東洋伝道において直面した最大の課題は、天地の創造神の概念を、宣教地の言葉で何と訳して伝えるかということであった。16世紀に日本にキリスト教を伝えようとしたイエズス会の宣教師たちは、まず何よりも唯一の創造主の存在とその救済の経綸を説くことを重要視したが、当時の日本には宗教的な概念を表す言葉は仏教語しかなく、それを媒介としてキリスト教の教理を説かざるを得なかった。そこで最初の日本人信者といわれるヤジロウは、創造主としての神を「大日如来」と訳した。大日如来は密教経典で説かれる諸仏の中心的存在であり、顕教における毘盧遮那(びるしゃな)仏と同じであるから、仏教においてはおよそ考え得る至高の存在であったのかもしれない。(注1)

大日如来

胎蔵曼荼羅の胎蔵大日如来

しかし当時の日本人が「大日如来」と言われて頭に思い浮かべるものは、やはり曼陀羅(まんだら)の中心に座する仏の姿であったに違いない。そこで、このような仏教的概念との混同を恐れたザビエルは、途中からラテン語の「デウス」をそのまま用い、訳語を使用することを避けた。しかし「デウス」と呼んだのでは、いかにも外国からやってきた神という印象を免れない。その後キリスト教の神の名称は「天主」「上帝」「神」「ゴクラク」「テンノツカサ」「カミ」など、さまざまな試みがなされたが、最終的には「神」に落ちついていった。しかしこれとても神道における「八百万(やおよろず)の神々」と混同される恐れがないわけではなかった。

このような事情は中国や韓国でも同じであった。イエズス会は中国に布教する際に適応主義の方針をとり、『書経』や『詩経』にみえる「上帝」を、キリスト教の神を意味する「天主」と同義であると解釈した。そこでキリスト教に入信した中国人は、キリスト者として生活することを「上帝に仕えるもの」と理解するようになった。これをキリスト教の本旨をねじまげるものだと批判したドミニコ会、フランシスコ会と、イエズス会との間で論争が起こり、ローマ教皇、清朝皇帝を巻き込んで激しい論争を展開したのである。さらに、孔子や祖先を崇拝する中国の伝統的な儀礼を容認するか否かの問題、すなわち「典礼問題」が加わり、これらの一大論争がもたらした結果は中国での布教禁止とイエズス会の解散という破壊的なものであった。(注2)

一方、韓国では「ハヌニム」という訳語が選ばれたが、これは壇君神話の人格神とキリスト教の神を同等にみなすことによって、韓国人に新しい神格を取り入れることを強要するのを避け、土着の宗教との直接対決を避けるのが狙いであった。また「悪霊」の訳語としては「邪鬼(サグィ)」という韓国語が当てられたが、この言葉は韓国のシャーマニズムにおいて使われていた言葉であり、地上を彷徨する浮遊霊のごときものを意味していた。このような訳語を選択することは、必然的にシャーマニズムの概念を、それに伴う宇宙観とともにキリスト教に持ち込むという結果をもたらしたのである。

このようにある宗教が他の文化圏に伝えられることによって、その内容に変化がもたらされるのは、何もキリスト教に限ったことではない。実は仏教が日本に土着化する過程においては、キリスト教よりもさらに大きな変容を遂げたのである。今日の日本においては仏教は「葬式仏教」などといわれ、仏教と葬儀は切っても切れないもののごとく考えられているが、実は仏教は釈迦の在世当時から、出家の僧侶たちが葬送儀礼に関与することを厳しく戒めてきた。日本でも各宗派の祖師を初め多くの僧侶が、葬送儀礼への僧侶の参加を戒めている。しかし、実際には葬送儀礼や先祖供養を行うことが仏教の重要な役割となって今日に至っている。これは日本人が、古来より重視してきた祖先信仰を無視することができなかったためであろう。

民衆的な仏教が栄えたといわれている鎌倉仏教においてさえも、道元、法然、親鸞などの祖師たちは、ある種のアカデミズムに基づいて、日本古来の氏神的な神信仰や祖先崇拝に対して強い否定の態度を取り、「神祗不拝」を強調した。しかしこのような信仰の一種理想の姿は、一部の教養人には理解が可能であったとしても、民衆の心情とはかけ離れたものであった。したがって、これらの仏教が民衆の中に完全に浸透していくためには、日本古来の宗教と融合しなければならなかった。鎌倉仏教の最後の祖師として登場した一遍(時宗の開祖)は、初めてこれらの土着信仰との融合を支持し、その宗教的な力を幅広く吸収する中で、自らの宗教を土着化させることに成功した。また浄土真宗では、親鸞の教えを忠実に守ったためにその教えが一般大衆に受け入れられず、本願寺が衰微するという事態になったため、本願寺第八代の蓮如が、先祖供養など民間の根強い要望を取り入れることによって、浄土真宗を大衆に受け入れやすいものとした。そして蓮如以降、浄土真宗は飛躍的な発展を遂げるようになったのである。(注3)

一遍

一遍

蓮如

蓮如

また、密教が日本で広まったのも、同様の事情によるものである。もともと密教はシンクレティズムの結果として生じた仏教の一派であった。呪文を唱えることによって災いを退け、幸福を招こうとする儀礼は、もともと古くからヴェーダの思想の中に存在したものであった。しかし原始仏教においては、釈迦がすべて外側の力の働きを頼む方法を禁止したので、呪文というものが入り込む隙はまずなかった。しかし釈迦の入滅後、教団の拡大につれ、バラモン教からの回心者もその数をますと、彼らの日常信仰であったいろいろの呪文(マントラ)は、知らず知らずのうちに仏教の中に潜入し、これにとけ込んでいったのである。この密教が空海によって日本に正式に伝えられたわけだが、これが日本で熱狂的に受け入れられるようになったのは、その呪術的な要素や現世利益的な性格が国家や一般の民衆にも受け入れやすかったためであろう。派手な加持祈祷のパフォーマンスによって、病気平癒や除災など身近の切実な問題を解決してくれると信じられた密教は、時代の要請にマッチしていたのである。(注4)

(注1)Wikipedia「デウス」より。
(注2)Wikipedia「典礼論争」より。
(注3)瓜生中、渋谷申博『日本宗教のすべて』日本文芸社、1996年、p.185
(注4) 同上、p.138

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