シリーズ「霊感商法とは何だったのか?」19


蕩減と因縁(7)

 3.蕩減と先祖の因縁の違い

蕩減と先祖の因縁の最も根本的な違いは、前者が創造主である神の存在と、その摂理を前提とした概念であるのに対して、後者はそのような主宰神の存在を前提としない、非人格的な法則の作用としてとらえられている点である。蕩減の概念は、神の創造目的と人間の堕落という、統一原理の根幹をなす二つの理論体系を前提としなければ、正確に理解することはできない。それは単に過去の罪の影響が自分に振り掛かってくるというような無目的的な概念ではなくて、あくまで神の創造目的を成就するために、歴史的な先人たちの身代わりとなって、彼らの果たしえなかった人間の責任分担を果たすという、明確な目的性を持った概念なのである。

そのような使命を果たすためには、まず神の創造目的が何であったのかを明確に知り、それを妨げた「堕落」という事故の内容が具体的に何であったのかをはっきりと理解しなければならない。そしてさらに、この課題に取り組んできた過去の中心人物たちがどのような失敗を犯し、それを取り戻すために、自分が現在どのような立場に立てられているのかを知らなければならない。すなわち蕩減の意味を正確に理解するためには、どうしてもキリスト教的な創造主の存在を受け入れなければならず、聖書の歴史をひもといた「復帰原理」の内容について学ばなければならないのである。

また因縁という概念はどうしても暗いイメージがつきまといがちである。特に日本においては「宿業」といって、なかば運命論的に不幸が割り当てられているかのように教える概念が存在するために、無力感に満ちたあきらめを助長する傾向が現れたが、これは業本来の意味からもかけ離れていると同時に、罪を清算することによって明るい未来を開拓しようとする「蕩減復帰」の思想とは真っ向から対立するものである。また「たたり」のようないたずらに人の恐怖を煽り立てるような概念も、蕩減の思想とはかけ離れている。統一原理における罪の概念は、あくまで自分自身に内在するものとしてとらえられているため、「悔い改め」こそがそれから解放される唯一の道である。したがってそれを何か自分の外部から偶発的に振り掛かってくる災難のようにとらえて恐れるのは、正しい態度とは言えないのである。

また因縁を清算する手段も、日本の仏教や新宗教においては、先祖を供養したり除霊や浄霊を行ったりすることであり、統一原理における罪の蕩減の方法とは異なっている。統一原理が説く蕩減の具体的な方法は、「信仰基台」と「実体基台」という二つの概念に集約される。信仰基台とは一言でいえば神と人との縦的な関係を回復することであり、摂理の中心人物として立てられたものが、まず何よりも神を信じ愛することを意味する。そして実体基台とは人間同士の横的な関係を回復することであり、具体的にはカインとアベルという相異なる立場におかれた兄弟が、恨みを越えて和解することを意味する。このカインとアベルは、創世記に登場するアダムの二人の息子であるが、この二人の関係は後の人類におけるすべての葛藤や対立を象徴する「原型」なのである。

すなわち、蕩減の具体的な内容とは「神を愛すること」と「人を愛すること」であり、これはイエス・キリストがわれわれに与えた二つの戒め、すなわち「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と、「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」(マタイ22:37-39)を実践することである。蕩減という概念は「先祖の因縁」と何らかの連続性を持つとは言え、基本的には純キリスト教的な背景から出てきた教えである。その本質は、罪の清算のために神への信仰に基づいて犠牲的な隣人愛を実践することにあると言える。

もう一つの重要な違いは、「先祖の因縁」が自分の家系に関心の中心を置いているのに対して、統一原理の「蕩減」はそれを超越するものであるという点である。先祖を大切にし、よく供養することによって自分自身や子孫の幸福を願うというのは、日本人の伝統的な宗教性であり、家庭の崩壊が深刻化している現代においては、むしろ貴重な美徳でさえある。家庭を大切にする日本人の倫理観と、それを背後から支えている宗教性の価値は、全面的に認められ、支持されるべきものである。しかし自己の家系に対する過度の関心は、ときとして家庭次元のエゴイズムに陥る危険がある。そして自分の家庭や家系の周りに広がっている、社会、国家、世界といった、より広い世界と自分との関係を見失ってしまう危険性がある、ということも忘れてはならない。

『原理講論』に述べられている「蕩減」の概念は、われわれ自身の血統的な先祖に対してはさほどの関心を払っていない。むしろ聖書に記されたアダム、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、イエスなどの歴史的な中心人物たちの成し遂げることのできなかった使命を果たすことに重点がおかれているのである。これらの人物たちはわれわれの血統的な先祖ではないが、神の摂理という観点からみたときに、われわれに先駆けて歩んだ「信仰の祖」としてとらえられているのである。このために後編の復帰原理においては、これらの人物たちが歩んだ路程について学ぶのであるし、これらの中心人物たちと「私」の関係については、後編の緒論において明確に述べられている。

 

「私」という個性体はどこまでも復帰摂理歴史の所産である。従って、「私」はこの歴史が要求する目的を成就しなければならない「私」なのである。それ故に「私」は歴史の目的の中に立たなければならないし、また、そのようになるためには、復帰摂理歴史が長い期間を通じて、縦的に要求してきた蕩減条件を、「私」自身を中心として、横的に立てなければならない。そうすることによって、はじめて「私」は復帰摂理歴史が望む結実体として立つことができるのである。従って、我々は今までの歴史路程において、復帰摂理の目的のために立てられた預言者や義人達が達成することのできなかった時代的使命を、今この「私」を中心として、一代において横的に蕩減復帰しなければならないのである。(注1)

 

このように統一原理における「蕩減」の概念は、私の家庭や血統的な先祖というレベルを超越して、全世界や歴史にまでその関心が及んでいる。これはもともと統一教会の理想自体が家庭の次元にとどまるものではなく、それを超えて社会、国家、世界の為に生き、人類が一つの家族として幸福に暮らす世界を目指しているためである。すなわち私の家庭は自分の血統的な先祖の供養や家族の幸福のみを追求するのではなく、より大きな共同体に奉仕する生き方をしなければならないと教えているのである。このことは文鮮明師の次の言葉の中に端的に表現されている。

 

私は、私の家庭のために存在し、私の家庭は、社会のために存在し、社会は国家のために、国家は世界のために、そして世界は神のために、神は、あなたと私のため、全人類のために存在されるのであります。この偉大なる授受のサークルの中に調和があり、統一があり、永遠に増し加わる繁栄のプロセスがあるのです。さらに言うならば、この回路の中で、すべての存在がこの創造の目的を成就するようになるので、そこにはあふれんばかりの深い喜びが存在するのです。これが幸福感の充満する天国なのであります。(注2)

 

このように、統一原理における「蕩減」の概念と、「先祖の因縁」とでは、前提とする世界観や関心のレベルが明らかに異なっていることが分かるであろう。したがって蕩減を理解するためのステップとして、「先祖の因縁」という土着のポピュラーな概念を利用すること自体は間違いとは言えないが、その理解のレベルに留まってしまうことはやはり問題がある。それでは統一原理の真の理想を理解したとは言えないのである。統一原理を正確に伝えることを目指す教会としては、個々の信徒が「蕩減」という概念を「先祖の因縁」を媒介として教えることを異端視したり、とがめたりするべきではないが、積極的に奨励すべきでもない。蕩減はあくまでも蕩減であり、他の概念によって置き換えられるものではないからである。

また「因縁」という言葉に一般的にまとわりついている暗いイメージを、「蕩減」に読み込むことがないように注意しなければならない。蕩減の思想は決して運命論ではないし、人に不安を与える思想ではなく、むしろ希望と祝福を与える道を示す思想であることを十分に理解させなければならないであろう。『しあわせ会』は、この点においてどうだったのであろうか? もし一部のメンバーに人々の不安をあおるような教え方をした人がいたとすれば、反省すべきである。

結論として言えることは、「蕩減」と「先祖の因縁」という概念は連続性と同時に非連続性を持ち、直接的には結びつかない概念であることである。すなわち、少なくとも統一原理そのものからダイレクトに「先祖の因縁」という概念を引き出すことはできず、それを「遺伝罪」や「蕩減」と結び付けるのは統一原理を日本に土着化させようとする個々の信徒たちの創造的な試みの中で生まれてきた「一つの解釈」に過ぎないものである。それは日本という宗教的土壌においてのみ起こることであり、他の国に統一原理を伝えようとするときには起こりえないことであろう。

 

(注1)『原理講論』後編・緒論(三)復帰摂理と「私」

(注2)文鮮明『御旨と世界』光言社、1985年、p. 270-271)

 

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