アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳88


第10章 結論(10)

それにも関わらずに、私は、ムーニーの過半数が運動に加わる際に良く計算し、関連するあらゆることを詳細に意識して考えて決定をしていると、主張したくはない。入会者の過半数が、会員になることのプラスとマイナスの全ての面の相対的な重要さを計ることに多くの時間を費やしているとは信じない。全く理性的な選択をしていると主張する数人のムーニーはいるけれども、大部分は、彼らが常に探してきたまさにその答えが得られたことに興奮して加わるようになっている。そして彼らは通常、理性的ではない(不合理とは同じではない)理由を、入教を決心する理由としてあげるだろう。説明の典型はといえば、次のようになる。「これまで聞いた中で何よりもまともだった」「誰かが回答を知っていることに救われたと感じた。もう悩む必要はなかった」「ここでやってみたかった。唯一の希望と思えた」「神がこの人たちを通じて働いていることが分かった」。そして非常に頻繁に聞かれるのが「神がこの運動に導いてくれた」である。

ムーニーではないわたしたちは、ムーニーの入教の理由がその人にとっては全く正当なものだということを受け入れよう。しかし、それだけでは満足できない。彼らの言う理由が「実際に」どういうことが起こったのかを十分に理解させるのに役立つ、ということを受け入れることはできないだろう。無論、ある特別な結果にまで導く全ての要因が何であったのかを正確に知るものはいないだろう。そして、人間の脳がどのように働くのかについて、科学も依然としてわかっていないことが膨大な量に上っている。ましてや人間の心については、もっとわからないことが多い。人はどのように決心を下すかについての概念を依然として把握できかねている。行動の「理由」と「原因」の間で区別がされる時もある。すなわち、われわれは自分の行動の理由をもっともな(そう考慮したと信じる)ことを挙げる。そしてわれわれは他の人々の行動の原因を見いだそうと努め、彼らの行動を、主観的に理解されたものではなくて、決定論的なプッシュとプルという言葉で説明しがちである。しかしながら、これは混乱させる区別である。それは一部には、自由意思、決定論主義、因果関係という言語が非常に多くの意味合いを持ち、曖昧であるからである。それでも、われわれは、人々は「実際に」感じ、信じ、欲しなどすることを自分自身で最善であることを知っているのだろうかとの疑問がある。彼らは自分たちの行動をとるさいにどれだけ理性的であるのだろうか? 無意識の力によって引き起こされているのだろうか? 彼らの議論に一貫性がないことをどれだけ気づいているだろうか? さらに同時に、われわれは問うことができる。すなわち、当該する人以外のものが、その人が信じることを知り、あるいはその人がどうしてそういう風に行動するのかを知ることができるのか? とりわけ、もしわれわれ自身がその該当する人物であったりするときにはそうである。(注38)もし、ムーニーが統一教会に入教する理由を、神が彼に明確な兆候を示してくれたからだとか、あるいは神が生涯を通じて導いてきてくれ、会員になるための準備をしてきたと主張するなら、ほかの人が、原因は社会的な背景に見いだされるのだと示唆したり、あるいは洗練された説得のテくニックの犠牲者に過ぎないのだと示唆することにどんな正当性があるのだろうか?

この書物の中で、私は、とったアプローチについていくらかの正当性を与えようとしてきた。私が信じることは、ムーニーの一連の特徴を、非入会者や対照群のそれと比較することによって、一方で、ある人々が重要であるに違いないと考えてきた要因の一部が、実際にはそれほど重要であるのだろうかと疑問にすることができる。また一方では、ムーニーが自分たちの背景の一部であるとしては否定しないだろうが、自分の説明の一部には使わないだろう顕著な影響を取りだすことができる。さらに可能なことは、ムーニーが与える説明の種類が、いかにそうした一連の人々から予想されるものと呼応しているのかということである。すなわち彼ら自身の説明は必ずしも、彼らのような人たちからすると奇妙な考えではないのである。例えば、次の引用は簡潔に、統一教会がこのケースでは、社会的な関心をもっている宗教指向の「行動人間」から引き出しうる種類の反応を要約している。すなわち、「私は挑戦されていると感じた。もしこれが真理であると信じるなら、行動に専心することを要求している。なぜならそれが言っていることは、今日の世界についてであり、また神が今日の世界でいかに働いているかであるからだ」。

時には、神が行動の全責任を与えられているようなこともある(「これが神のみ旨だと分かると、他に選ぶ道はなかった」)。しかしながら、指摘すべきは、ある種の人々だけが神の願いに従う準備があるということである。神に服従しようとする人々はあまり強い意志を持っていないのだと思われているけれども、神のみ旨と信じるものに従う男女が極めて強靱な意志を持っていたと考えらるケースは歴史的に数多く挙げることができるだろう。そして私は非常に強靱な意志を持っているムーニーに何人か出会っている。さらに、忘れるべきでないことは、神への服従者は、従うのは神のみ旨であって偽善者にではないということである。わたしがこれまで示そうとしてきたように、ムーニーは神の提示する回答や命令について極めて明確な考えを持っている人たちである。あるいは、以前に考えていた信念と統一教会を選択することによって提示されたものとが少なくとも一致していないのではない人々である(他のあるイデオロギーや考え方とは一致しなかったのだが)。統一教会は多数の青年たちが満たそうとする真空状態を利用していると、信者でない人々は疑うかもしれない。しかし、証拠が示唆するところによると、統一運動の啓示は、ごく限られた人々だけを納得させるものであり、多数の青年にとっては、無論、統一運動に出会う以前に作られていた真空は宗教的なものものばかりではなかった。宗教的な回答は、より世俗的な希望や期待とかなりの程度の一致性を要求したと思われる。(注39)

(注38)B ウイルソン編集 「合理性」 オックスフォード、ブラックウエル、1970年の特に序論を見よ。
(注39)宗教的な信仰と世俗的な性格のあいだに「フィット」することを探している社会科学者によって持ちだされる疑問のいくつかについては、次の論文で議論されている。E バーカー 「置き換えの限界 二つの学問がお互いに顔と顔を付き合わせる」、D マーティン、J オームミルズ、WSF ピッカリング編集 「社会学と神学 同盟と対立」所蔵 ブライトン、ハーベストプレス、1980年。

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