シリーズ「霊感商法とは何だったのか?」17


蕩減と因縁(5)

統一原理における罪の概念は、血統と密接に結びついている。まず原罪自体が「人間始祖が天使と不倫なる血縁関係を結んだこと」であり、「血統的な罪」であるとされている。すなわち罪の根は淫乱にあったのであり、これは血縁関係によってつくられた罪であるために、子々孫々にまで遺伝されてきたととらえられているのである。人類始祖というような遠い昔の祖先ではなく、われわれに比較的近い先祖が犯した罪も、血統的な因縁によってわれわれに受け継がれるのであるが、これを統一原理では「遺伝罪」と呼んでいる。さらに自身が犯した罪でもなく、また遺伝的な罪でもないが、連帯的に責任を負わなければならない罪である「連帯罪」と、自らが直接犯した罪である「自犯罪」とを合わせて、統一原理にはつごう四種類の罪概念が存在することになる。(注1)

「遺伝罪」や「連帯罪」という概念は従来のキリスト教にはないが、原罪が血統を通して遺伝されるという考え方は、伝統的にキリスト教がとってきた立場である。しかし一口に「原罪の遺伝」と言っても、その意味する内容には諸説ある。ここではそれを二つのタイプに大別して、それらが統一原理と一致する内容を持っていることを示すことにする。原罪に関するキリスト教の教理は、伝統的に旧約聖書の創世記第三章に記されている失楽園の物語、すなわちアダムとエバの堕落の物語と結びつけられてきた。この点についてはキリスト教も統一原理も全く同じである。しかしそれがどのようにして後孫に影響を及ぼすのかということについては、キリスト教の中にも二通りの考え方があったのである。

第一番目の考え方が「罪責の法廷論的伝播」というものである。「原罪」とは私自身が犯した罪ではなく、人類始祖アダムとエバが犯した罪であるにも関わらず、あたかもその罪を自分が犯したかのような罪責をわれわれが背負わされているというものである。これはわれわれがアダムとエバの子孫であるという「血のつながり(血統)」を条件として、その罪に対する責任を「法廷論的」に負うということを意味する。このような立場をとるのが、プロテスタントの中でもカルヴァン主義の流れをくむ「契約神学(Federal Theology)」である。契約神学の主張するところによれば、神はアダムを通して全人類と契約を結ぼうとしたのであり、その代表であるアダムが罪を犯すことにより、全人類が法廷論的にアダムの罪に巻き込まれるようになった、ということになる。統一原理における原罪の概念も、基本的にはこれと同じ枠組みでとらえられている。(注2)

もう一つの考え方は、「罪の生物学的な遺伝」というものである。これは原罪の教義を最初に体系化したと言われるアウグスティヌスのとった立場であった。彼は原罪の本質を情欲としてとらえ、肉欲によって汚された人間の性交を媒介として原罪が遺伝されるのであるととらえた。すなわち、たとえ正当な結婚による夫と妻の性関係といえども、それは罪深い情欲によって汚れているために、すべての子供が罪の中にはらまれ、アダムとエバの罪を相続するのであると考えたのである。このように性欲そのものを罪悪視し、それを原罪の遺伝の決定的な要因とする彼の立場は、後にカトリック教会から否定された。しかし性欲に焦点が絞られているという点を除いては、原罪が繁殖によって後孫に遺伝されていくという彼の主張は認められたのである。(注3)

 

ジャン・カルヴァン アウグスティヌス

 

統一原理も性欲そのものを罪とはとらえないので、その点ではアウグスティヌスの立場とは異なる。しかしわれわれが人類始祖アダムとエバから受け継いでいるものが、単に法廷論的な罪責だけではなく、堕落によって生じた人間の腐敗した性質をも、血統を通じて受け継いでいるととらえている点では、彼の考え方に通ずるものがある。これを統一原理では「堕落性本性」と呼んでいる。これはアダムとエバが堕落することによって、サタンとなった天使長ルーシェルの性質を受け継ぐようになり、それが歴史的に継承されてきたために、あたかも人間の本性のごとく深く根付くようになってしまった性稟のことを言う。具体的にいえば、それは妬みや嫉妬、恨みや憎悪、傲慢や反抗心、罪の繁殖や自己正当化といった、およそ人間の自己中心的な性質のすべてを含むと言っていいであろう。このような腐敗した人間性は、親から子へと遺伝や生活習慣を通して伝播されるのである。

このようにわれわれ個人の人生は、法廷論的にも遺伝的にも過去に生きた先祖たちの罪の影響を受けている、というのが「統一原理」の人間観である。個人主義的な倫理観が全盛である現代の観点から見れば、自分自身が犯してもいない過去の罪に対する責任が自分にふりかかってくるという考え方は受け入れ難いかもしれない。事実、実存主義的な哲学に基づいて聖書を解釈する現代神学の多くは、罪が血統を通して遺伝するという考え方を否定する。彼らにとってアダムとのエバの物語は、遠い昔に生きたわれわれの先祖に起こった事件について述べたものではなく、常に罪の誘惑にさらされているわれわれの普遍的な状況を描写した「神話」なのである。すなわちアダムとエバとはわれわれ自身のことであり、われわれの血筋をたどっていくことによってたどり着く罪のルーツなのではない。このようにして、彼らはアダムとエバの歴史的実在とともに「罪の遺伝」という観念をも否認してしまった。

しかしカトリックやプロテスタントの保守派を初めとする伝統的なキリスト教は、公式的にはアダムとエバの歴史的実在を否定していないし、罪の遺伝という観念も捨て去っていない。したがって統一原理における罪の遺伝の概念は、明らかにキリスト教の枠内に入り、その中でも保守的・伝統的な理解をしているグループに入ると言っていいであろう。すなわち、統一原理における罪の遺伝の理解は、純キリスト教的な起源に基づくものであると言うことができるのである。

 

(注1)『原理講論』第2章堕落論、第4節人間堕落の結果(五)罪の項目を参照。

(注2)J.C.O’Neill「契約神学」(A・リチャードソン/J・ボウデン編、古屋安雄監修/佐柳文男訳『キリスト教神学事典』教文館、1995年、p.210)、藤代泰三「契約神学」(『キリスト教大事典』今日文館、1963年、p.376)

(注3)北森嘉蔵「原罪」(同上、p.390-1)

カテゴリー: 霊感商法とは何だったのか? パーマリンク