シリーズ「霊感商法とは何だったのか?」10


霊感商法(6)

(2)シンクレティズムのメカニズム
このようにシンクレティズムの事例を見ていくと、それはキリスト教や仏教などの世界宗教が他の文化圏に伝えられ、それが大衆化していく過程において、民俗宗教や民間信仰と呼ばれる庶民の宗教と融合して起こる現象である、という一つのパターンが見えてくるであろう。したがって、シンクレティズムのメカニズムを説明する際には、しばしば「大伝統(great tradition)」と「小伝統(little tradition)」という二つの要素からなる二元モデルが使用される。大伝統は「エリートの宗教」ともいわれ、高度な知性を持った神学者や高僧たちが築き上げた、成文化され洗練された宗教体系である。それに対して小伝統は大多数の庶民の間に習慣的に伝わっている、成文化も体系化もされていない、素朴で、ときとして呪術的な宗教伝統である。(注1)

これら二つの伝統は重層的な関係で共存している。すなわち社会全体がキリスト教や仏教などの大伝統を受け入れ、それを公認の宗教として営まれていたとしても、民衆の間にはそれらが伝えられる以前の土着の信仰が、大伝統の影響を受けながらも脈々と生き続けるのである。大伝統は寺院や修道院にこもって経典の研究に生涯を捧げる一部の宗教的エリートたちによって継承されて行くのであるが、それが一般大衆に完全に理解されることは有り得ないし、これらのエリートたちは大衆の宗教性を完全にコントロールすることもできない。したがって大衆の間では、大伝統の立場からすればいくぶん逸脱した、自由で創造的な宗教的実践が行われるようになるのである。このような場がまさにシンクレティズムの発生するフィールドである。

日本においては、このような大衆の宗教が花開く場が「講」と呼ばれる組織であった。これはひとことで言えば、大伝統の配下にあってそれをささえる在家信徒の組織であり、神道においては神社の氏子の集まり、仏教諸派においては壇信徒の集まりである。日本においては、このような講組織が既存の宗教的権威や伝統に依存しながらも、独自の運動を展開しようとすることが多かった。近代日本において次々と新宗教が誕生したのは、このような講組織が大伝統の支配をはねのけて、一派の宗教として独立することが多かったからである。完全に分離独立には至らないにしても、講組織が活発な活動を展開して教勢を伸ばし、大きく成長した場合には、大伝統(宗門や神社)との間に軋轢を起こすことになりやすい。それは小さくておとなしい講であれば僧侶や神官たちの権威が脅かされることはないが、講があまりに巨大になり、活発な布教を展開することになると、僧侶や神官たちとの力関係が逆転することも有り得るからである。(注2)

このような事態の例で最も有名なのが、創価学会と日蓮正宗の確執である。創価学会の会員が日蓮正宗の壇信徒にもなるというのは、創価学会側が作ったシステムである。学会出現以前は、日蓮正宗の教勢はそれほど大きなものではなかったが、学会の出現によって公称信徒数はわずか60年で200倍以上になった。これは大伝統である日蓮正宗の宗門側としては、黙っていても講組織が壇信徒を増やしてくれるわけだから、有り難い話に違いなかったが、その半面、創価学会は壇信徒の組織でありながら、もはや宗門の意向に従わない独立性を持った集団という、扱いづらい存在になってしまった。このような形態を、教団の中にもう一つ教団ができた形と考えて、「内棲宗教」と呼ぶ研究者もいる。(注3)最終的には1991年に日蓮正宗が「創価学会」破門することにより、両者の関係は決裂した。

日本の仏教系新宗教の場合には、それが一派として独立するにあたっては、当然のことながら既成の仏教諸派との間に、信徒の所属をめぐっての争いが生じた。このような軋轢をできるだけ回避するためにそれらの新宗教がとった現実的な対策は、既成宗教との間に一種の役割分担の区別を設けることによって、住み分けを行おうというものであった。すなわち、彼らは初詣、七五三、結婚式、葬式などの人生儀礼は既成宗教の領域としてそこには立ち入らず、自らの役割をもっぱら心身の悩みを解決することや、生き甲斐を与えることに限定し、儀式的なことがらに関しては信徒たちが既成宗教に関わることを容認したのである。

さて、このようなシンクレティズムのメカニズムと、日本の宗教的土壌を理解したときに、「霊感商法」と呼ばれた一連の現象について何が分かるであろうか? 霊感商法というシンクレティズムが発生したメカニズムを二元モデルに従ってとらえれば、大伝統に相当するものは『原理講論』にのっとった統一教会の純粋な信仰ということになり、小伝統は手相、骨相、生命判断、四柱推命、因果応報の世界観、および霊石信仰など、日本の土着の宗教性に該当することになる。組織的に言えば、大伝統をつかさどるのが宗教法人である統一教会であり、統一原理と日本の土着信仰を習合させながら一部の信徒たちが自発的に作り上げた講組織が「全国しあわせサークル連絡協議会」である。

大伝統は別名「エリートの宗教」と呼ばれるが、これは宗教法人・統一教会の職員の社会的階層がエリートであるという意味ではない。これはむしろ『原理講論』の内容が知的に高度な内容をもつ体系的神学であり、さらに聖書という一般的な日本人には馴染みの薄い経典に根拠をおいて論じられているため、とっつきにくい内容であるということである。日本の初期統一教会の教会員たちの背景を大別すると、キリスト教徒、立正佼正会出身の仏教徒、原理研究会からつながった大学生などとなるが、その共通点はいずれも先入観を持たない純粋な若者であり、しかも知的好奇心に満ち、真理に飢え乾いた理想主義者たちであったということだ。彼らは『原理講論』の知的体系に引き付けられ、その真理性に感動して教会に来た者たちであった。したがって、彼らのほとんどは『原理講論』の内容をいかなる土着の宗教性とも混合することなく、純粋に受けとめたのである。

統一教会草創期のメンバー

崔奉春宣教師(左から二番目)と統一教会草創期のメンバー

また、彼らの信仰生活は禁欲的かつ献身的であり、非常に高い宗教的なスタンダードと犠牲精神がなければ、教会に残ることの難しい時代であった。すなわち初期統一教会の伝統はどちらかと言えば一般大衆には馴染みにくいものであり、多分にエリート宗教的な様相を呈していた。さらにその性格からいっても、反共愛国運動に勢力的に加担するなど、どちらかといえばイデオロギー的性格の強い理想主義的な宗教であり、現世利益や呪術などの土着の宗教性とは無縁であった。

ところが1980年代に入ると、統一教会の一部信徒たちの間に、従来の宗教性とは著しく異なる傾向が出現するようになった。これは『しあわせ会』のメンバーたちが、印鑑や壷などの開運商品を販売する中で生じてきた「宗教的トーク」であり、これは従来の統一教会の宗教伝統から見れば明らかに異質なものであった。ここに日本の土着の宗教概念が持ち込まれるようになった経緯については、個々のケースによって異なることであろうし、詳細なことについては知る由もないが、恐らくは個々の信徒が統一教会に来る以前に持っていた信仰の反映であるか、顧客の世界観に合わせて、相手に分かりやすい概念でこちらの意図を伝えようとするときに生じたものであろう。

(注1)シカゴ大学のロバート・レッドフィールドは、1930年代から40年代にかけてユカタン半島の複数のコミュニティーを調査、シンクレティズムにおける大伝統(great tradition)と小伝統(little tradition)の相剋論を提唱した。彼は、各々のコミュニティーが有する小伝統の違いにより、大伝統との関わり方の違いが生じ、異なった複合文化が生成するとした。
(注2)Wikipedia「講」より。島薗進『現代救済宗教論』 青弓社、1992年、p.54も参照。
(注3)西山茂「内棲宗教の自立化と宗教様式の革新―戦後第二期の創価学会の場合―」(『沼義昭博士古稀記念論文集 宗教と社会生活の諸相』、隆文館、1998年、pp.136-137)

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