アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳80


第10章 結論(2)

 年長者たち(および一部の同世代の者たち)からみれば誤っていて、無責任で、理解不能で、奇妙で、狂っていると思えるようなことを、なぜ若者たちがするのかを説明するために、多くの理由が提示されてきた。青春は理想主義と、反抗と、実験の時代である。たまたま恵まれた中産階級の出身であれば、理想を追求しながら、自分自身に対して贅沢を禁止するという贅沢をするだけの余裕がある。青年期の健康を享受し、差し迫った責任からも解放されていれば、物質的な利益を放棄することができる。それは少なくとも、その人がばかげた幻想を捨てるぐらいまで「成熟」し、落ちついて、伝統的な社会の営みや価値観を受け入れ、そして恐らくそれらを支持するまでの間であるが。

 そのような観察には明らかにかなりの真実が含まれているし、なぜ統一教会のフルタイム・メンバーになる人々がある特定の年齢層から得られる傾向にあるのかを理解するのに役立つであろう。しかし、それだけではこれらの一般化はあまりにも大きすぎるのであり、歴史を通じて多くの時代に当てはまるだろう。われわれは、統一教会のような運動へとより具体的に若者たちを押し出すような、より具体的な現代社会の特徴があるのかどうかを問いたくなるであろう。さらにまた、そのような一般化は、なぜこれらの若者たちの一部はムーニーになり、他の者たちはアングリカンや、毛沢東主義者や、自由の闘士や、パンク・ロッカーや、シンナー遊びをする者や、サッカーのフーリガンや、アマゾン川の上流を探検する者になるのかを説明するのには役に立たない。われわれは、必ずしもすべての若者たちが統一教会が提供しようとするものを見いだそうとして群がってくるわけではないことを見てきた。実際には、彼らの大多数は報道されてきたような運動の姿だけでなく、それが具現化している信仰と実践の多くに対しても、極端な嫌悪感を示しているのである。(注1)こうした若者たちの一部はなぜ、それに対して違った見方をするようになるのであろうか?

 統一教会の選択肢は正気の人間にとっては普遍的に不快なものであるという前提が原因の一端となって、勧誘に関する疑問は「どうしてムーニーなんかになる人がいるのだろうか?」という形を取ることになり、それに対する答えは、正気の人間がムーニーになることはありえない、ということになる。そこでムーニーがいるという事実は、以下の二つのうちのどちらかで説明される。最も単純な説明は、その人は洗脳やマインド・コントロールのような抵抗不能なテクニックを受けていたので正気ではなかったというものである。しかしながら、私が既に論じたように、これはもう一つの疑問へと導く。どうして(ひとたび運動を接触を持った人の中で)ムーニーにならない者がいるのだろうか? 統一教会のテクニックに抵抗する人がいるという事実は、第二の説明に導くと思われる。すなわち、ムーニーになる人は本当の意味で正気であったとは言えない。なぜなら彼らは特に受動的で、感傷的で、暗示にかかりやすい人々だからというのである。しかし、証拠が示しているのは、数名のムーニーはこのカテゴリーに入るかも知れないが、大多数はそうではないということだ。実際、そのような人々が修練会に引き付けられてくることはあるかもしれないが、まさに最も説得に弱いと思われる人々は、最終的に教会に入会しない人々であり、入会に同意する若干の者も非常に短期間の内に脱会を決断しているのである。したがって、少なくとも一応の証拠に基づいて仮定できるのは、統一教会の選択肢は大多数の若者たちにとっては魅力的ではないけれども、「正気の状態」にあると思われる一部の人々にとっては魅力的である、ということになりそうである。

 入会者と非入会者との違いをさらに詳しく追求する前に、統一教会が新会員の候補者たちに提示していると思われるものが何であるのかを思い起こすことは有益であろう。私は以下の統一教会の信仰体系についての概要を、それが新会員候補者に対して提示されているのと同じように提示するが、同時に実際の結果が認識できるような方法で提示しようと試みる。すなわち、これらがある特定の人々(他の人々はそうではないが)に対しては、「外部」の社会が提供していると思われるものよりももっと重要で、魅力的で、あるいは説得力のある選択肢を提供しているのだと説得できるという意味においてである。また私は(1)運動の究極的な目標のビジョンと、(2)その目標をもたらすと信じられているより当面の手段の二つを区別するであろう。私がこうするのは、次のような疑念を持つからである。一方で超越的な目標を掲げながら、他方で世俗的な手段を用いるというこの奇妙な組合せを認識することが、ある特定の種類の人々をとらえるけれども、他の人々を「遠ざける」ような運動の魅力を理解する上で、重要な手がかりを与えるのではないか。(それはまた、運動がメンバーに命じている服従をどのように実現できるのかについても、いくつかの手がかりを与えてくれる)(注2)。さらに、手段と究極的な目標の間には直接的な関係が存在している(あるいは存在し得る)と信じることがムーニーにとって最高の信仰の証しである一方で、(注3)運動の反対者たちの多くが統一教会は根本的に欺瞞的であり搾取的であると見るようになるのは、そのような関連は「ないのだ」という信念によるところが大きいのではないかと思われる(そのような形で提示されることはあまりないのだが)。

 第3章を思い起こしていただけば、統一教会の目標は地上天国の復帰であると概念化される。その手段は、メシヤに従い、蕩減条件を払い、神の「統一原理」を理解し、自己を完成することと概念化される。最後の自己完成のプロセスには(「祝福」結婚式の前に行われる)聖酒式の儀式がある。その時に、参加者はサタンの血統から天の血統へと転換され、原罪を精算されると信じられている(注4)。

(注1)しかしながら、私は以下のことを発見して驚いた。対照群の過半数は、自分の結婚相手を他人に選んでもらうという考えに対して強い嫌悪感を表明したものの、少数とはいえ無視できない数の者がそれも安心かもしれないと述べ、お互いに相応しい人が誰であるかを最も正しく判断できるのは、当事者の二人ではないかもしれないと(自分自身で代価を払って気付いたので)言ったのである。
(注2)同時にまた、どんな種類の人が入教し、その入教する理由が何であるかを理解することは、どうして運動が完全な従順を命令することは「できず」、要求を加減しないかぎりは会員の一部を失う危険を冒すことになるのかについての手がかりを与えることなる。次の論文を参照せよ。E・バーカー「愛を行う:理想家庭の中の葛藤」、G・ジェイムズ(編)『家庭と統一思想:現代的研究』ニューヨーク、ローズ・オブ・シャロン出版、1983年に掲載;アイリーン・バーカー「主よいずこに?」、P・ハモンドとD・E・ブロムリー(編)『21世紀に向かって」、ベルトン、カリフォルニア州、ワッズワース、近日出版に掲載;E・バーカー「行動するムーニー」オックスフォード、ブラックウェル、近日出版。
(注3)ムーニーたちは、地上天国実現という総合的な目標を達成するために用いられている手段として、第2章で述べた数々の統一教会の冒険的事業(ICUS、神観会議、CAUSA、勝共連合、新聞、リトルエンジェルズ、機械産業、大会など)を指摘するであろう。そのような冒険的事業が進むにつれ、信仰のギャップは狭められていく、とムーニーは主張する。
(注4)以下の文の説教を参照せよ。「約婚と聖酒式」1979年5月13日、「季刊祝福」第3巻第1号、1980年に掲載。

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