アイリーン・バーカー『ムーニーの成り立ち』日本語訳79


第10章 結論(1)

「どんな結論に到達しましたか?」というのが、私が統一教会の研究をしているということを聞いた人々(ムーニーたち自身を含めて)から数えきれないほど尋ねられた質問である。私はそれにどう答えるべきか、よく分からない。もちろん、私は多くの結論に達した。しかし、リサーチ全体をまとめることができる一つの結論、あるいは半ダースの結論でさえ、生み出すことは困難である。新会員勧誘に関する部分に限ったとしても、やはり同じことが言える。私自身が「洗脳のプロセス」を経験したということが分かると、最初の質問に次の質問が付け加えられることが頻繁にあった。「入会したいと感じましたか?」その質問に対する答えは、(ムーニーにとっては残念ながら)簡単である。「いや、一瞬もそうは感じなかった。私は常に運動に対して大いに抵抗できることが分かった」である。しかし、これは私の個人的な反応であり、それは必ずしも他の人々がどうして入会したがるのか理解できないと感じたということではない。事実、私の研究のこの部分について単一の結論を提示するように強く求められるなら、それは、ある特定の人々がなぜムーニーになるかについて理解を深めることは「可能である」と信じる、ということになるだろう。しかしそうは言ったものの、私はいかなる単一の説明も不可能であるし、実際、いかなる単一の説明も「誤っている」とも主張したくなるであろう。数多くのデータを考えあわせる必要がある。それらのすべてがそれ自体で非常に重要だとは思えないかもしれないが、統合すれば、一般的で(一般的になりすぎるのは避けられないかもしれないが)かなり複雑な像を構築することができる。この最終章で私は、これまでの章で提示された詳細な内容から浮かび上がる一つの像の輪郭を描いてみようと思う。

しかし、なんらかの「体系化する原理」がなければ、データを整理して一般化することはできない。そしてここでも、この本の他の部分で一貫してそうであったように、私は4つの変数の相対的な重要性と相互作用を評価する試みによって導かれている。ご記憶のことと思うが、その変数は5章において、ある特定の結果がどのように、またどの程度、選択ではなく強制によるものであるかを決定する上で、最も重要なものとして分離された。より具体的に言えば、以下のような質問に取り組むということだ。ある人がムーニーになるのはどの程度まで、その人の性質と過去の経験に照らして、統一教会の信仰と実践が「外の」社会と比べて「より良い」と判断するからなのだろうか? どの程度、外部社会の経験は統一教会の選択肢へと向かう「圧力(プッシュ)」となるのだろうか? どの程度、統一教会の選択肢はその他の選択肢から引き離す魅力的な「吸引力(プル)」となるのだろうか? そしてその人が自身の性質や経験を「再解釈」し、統一教会員たちが彼に悟ってほしいと思っていることだけを悟り、将来はムーニーになること以外にありえないと認識するようになるうえで、直接的な(統一教会)の環境はどの程度影響しているのだろうか?

4つの変数の中で恐らく最も議論のあるものから始めれば、西洋の大多数のメンバーの入会において、統一教会の環境が重要な役割を演じていることは明らかである。その他のほとんどの新宗教と違って、ムーニーは通常、新会員候補者を泊まり込みの研修会に参加するよう説得しようと試みる。この行為そのものは、運動について学ぼうとする人々の数を減らすかもしれないが、参加する人々は、一部のゲストには相当の影響を行使できるような注意深く管理された状況に置かれることを意味する。

何らかの物理的な強制がムーニーによってなされているという証拠はない。また、食事や修練会の活動が、その時にその他の社会的環境にいたならば持っていたであろう「普通に」行動する能力を失っていたと判断される程に、ゲストの生物学的な機能を深刻に損なっているという証拠もない。しかしながら、ムーニーは、いま自分が置かれている状況に対するゲストの認識に影響を及ぼそうと最善の努力をするだろうと信じるべき理由は多くある。他者に比べて過去の記憶を呼び覚ましやすいゲストもいる。希望、恐怖、そして時には罪悪感が刺激されることがあるかもしれない。個々人に「共鳴」するものが何であるかを見つけ出すために気が配られる。統一教会の選択肢を選ぶことが最善であるかのように描かれ、あまり魅力的でない運動の側面は伏せられたり、時には否定されることもある。新会員候補が(教会に)拮抗する影響力を受けるような機会がほとんどない場所もあり、特にカリフォルニアはそうである。そして何よりも重要なのは、統一教会の環境の中で体験する愛と世話の共同体は、個々人との個人的な絆の感情を醸成することになり、それはやがてグループに対する信頼、献身、忠誠の感情へと発展していくということだ。そうした感情は、それがない場合に比べて、ゲストが統一教会の世界観をより喜んで受け入れるよう促進するかもしれない。

しかしまた、統一教会の環境が抵抗不可能なものではないということも明らかである。運動への回心は、(限られた)いくつかの「個人的な」体験の結果であり、それは大衆誘発的な催眠術の結果ではない。ムーニーの勧誘を受けた人々の大部分が、運動に加入することを完璧に拒否できるという事実は、統一教会の強制的テクニックにのみ依拠して運動への入会を説明することを排除する。それはまた、ムーニーの提供する選択肢が、——たとえそれが統一教会の環境の中で提示されたときであっても、——抵抗不可能なものであると示唆することも排除する。それはその代わりに、ゲストが「その人とともに」持ってきた個性やこれまでの体験が重要な役割を演じているに違いないという結論を示している。このことはわれわれを次の質問へと導く。運動に加入する人々は、そうでない人々とどのように異なっているのであろうか?

第5章で私は以下のことを説明した。ムーニーのなりたちに何が必要であるかを見いだしたいのであれば、われわれは確かに個々のケースを調べなければならないが、また全く同じケースというものは二つとないということをわれわれは認識しなければならないが、個々のムーニー(あるいは元ムーニー)だけを見ていては、統一教会の勧誘に関わっているかもしれない強制あるいは選択の種類や程度を決定する上では役に立たないのである。私は、比較分析によって、以下の5つの異なるグループの人々に見いだされる一連の性格に、いくつかの興味深い違いを見つけることが可能であると説明した。(1)ムーニーになった者たち、(2)入教したが、一両日、あるいは最長でも数週間以内に離脱した者たち、(3)修練会に行ったが入教しなかった者たち、(4)ムーニーと同年代で同じような背景を持っているが「勧誘を受けなかった」対照群、および(5)人口全体である。

人口全体をみるならば、ムーニーの伝道活動に対して好意的な関心を示したのは非常にわずかな割合の人々だけであることは明らかである。反応した人々は、18歳から28歳の間の年齢層が圧倒的に多く、大多数は男性であり、中産階級に偏っていて、通常は未婚である。対照的に、ホームチャーチ会員あるいは準会員になる人々は、より伝統的な教会に所属する人口層の特徴の多くを持っている。すなわち、より年長であり、女性であり、やや下層(ただし、それでも中産階級に偏ってはいるが)であり、結婚している人々が多い。

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